SIGNATURE2016年03月号
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17山崎豊子著 装幀:村井正誠新潮社 1965年やまもと あきひこ|ワイン・ジャーナリスト。読売新聞記者を経てフリーに。『ワイン王国』『ヴィノテーク』など専門誌に寄稿。著書に『50語でわかる! 最初で最後のシャンパン入門』『読めば身につく! これが最後のワイン入門』(ともに講談社)など。 http://winereport.blog.fc2.com/第11回文・山本昭彦 写真・石塚定人 ロックミュージシャンにビートルズの好きな曲をたずねると、答えは毎回変わる。私の好きな本も毎年、変わるのだが、いつも上位にくるのは小説『白い巨塔』だ。山崎豊子が社会派の地歩を固めた作品。何度も映像化されているので、詳しい説明は不要だろう。 週刊誌で連載が始まったのは昭和38年(1963年)。医学界も医療過誤訴訟の現実も、当時とは大きく変わった。私がこの小説を今も開くのは、医学界にメスを入れたからではない。人間の欲望とそこから生じる「業」が鮮明に描かれているからだ。 主人公の外科医・財前五郎が医師になった動機は純粋なものだった。頂点を目指すのは悪いことではない。成功を欲する大志や、名誉への願望がなければ、人間は成長しない。他人の成しえない業績を挙げようとするところに、医学の進歩もある。医療だけではない。ビジネスマンも、芸術家も、ライターも、他人を出し抜きたいという欲望を原動力にしている。 しかし、権力や栄誉に執着しすぎると、業に絡め取られてしまう。影響力の拡大が、手段ではなく目標になったとき、人はダークサイドに転落してしまうのだ。がん細胞が発達する。だれもが陥りやすい落とし穴だ。私が新聞社で働いていた30年間にも出会った。巨大なメディアの看板が自分の力であると勘違いした人間に。中国には「水を飲む人は井戸を掘った人の恩を忘れない」ということわざがある。仕事がうまくいって、有頂天になりそうな時ほど、自分はだれかに助けられているということを思い出さなければならない。『白い巨塔』ごう これまで、世界のワイン市場を動かす評論家や、最高の評価を得ているワイン生産者に大勢会ってきた。トップの人ほど謙虚だ。偉大な造り手たちは必ず、「最高のワインはこれからのヴィンテージだ」と口にする。評論家たちの話す内容は、孫子の兵法のように簡素で、誇張がまったくない。「知れば知るほど、自分の無知を知る」と。ワインの世界に終わりがないことをわかっているのだ。 『白い巨塔』は、哲学者の難解な理論や、宗教家のありがたい言葉よりはるかにわかりやすく、社会で生きるのに必要な真理を教えてくれた。現代にはびこる企業小説のひな型はすべて、ここにあるといってもいいだろう。財前五郎は、自分の専門であった胃がんで非業の死をとげて、物語は閉じられる。最期の瞬間に、自分が誤っていたことを悟り、後悔の念にとらわれる。因果応報とはいえ、闇に落ちても救いがあるということも教えてくれた。ColumnSignatureText by Akihiko YAMAMOTOPhotograph by Sadato ISHIZUKA1LIFE with BOOK水を飲む人は井戸を掘った人の恩を忘れない
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