SIGNATURE2016年03月号
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〝小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さあ、ぶ、が泣きながら渡っていた。双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の褪せた黒の前掛をしめ、頭から濡れていた この文章の一節は、昭和の時代小説の大家・山本周五郎の名作『さぶ』の冒頭部分である。私は今でもこの冒頭部分をくちずさむことがある。まだ作家になる以4 〟 前のことであるが、あれが文章修業と言えるのか、好きな作家の文章を書き写していた時期があった。その中のひとつに周五郎の『さぶ』という作品があった。時代小説の名手と言っても、今の若い人にはピンと来ないかもしれないが、出版された作品のほとんどが映像化され、黒澤明監督(赤ひげ)、野村芳太郎(五瓣の椿)などヒット作を生み出した作家である。他にも何人かの作家の小説を書き写したが、それが今の自分の文章にどう影響しているかはわからない。しかし不思議なもので若い時に身体に覚え込ませたものは生涯忘れることがないものである。それが長い文章の一節であれ……。私は、時折、一人で隅田川沿いを歩くことがある。何か目的があってのことではない。川風に当たりながら水景を眺める。気持ちが落着くのだ。子供の時、朝夕、波の音を聞いた環境で育ったせいかもしれない。両国橋も何度か渡り、橋の欄干から流れる川面を見た。そんな時、周五郎の文章の一節が口からこぼれる。今月は妙な書き出しになった。もやふたごじまこくらごべん Text by Shizuka IjuinIllustrations by Keisuke Nagatomo
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