SIGNATURE2016年03月号
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「ああ、見えた、見えた」 「どうだった?」 「普通の女の人だね」父親が少年を下ろした。母親が訊いた。父親は苦笑し、母親は、美しかったでしょう、と少年に言っていた。三人はその場を立ち去った。――普通の人か……。私も口元をゆるめてその言葉を反復した。――普通の女性か……。私は周囲の見物人の顔を見回した。誰もが興奮していた。――何なんだ、これは……。フランスに渡る以前から画家の手元にあったという『モナ・リザ』の年月を数えた。五百年の歳月、鑑賞者のこころをとらえ続けた、その力はどこにあるのだろうか。そう思った途端、私はダ・ヴィンチだけは作品を見ておかねばならないのではと思った。この十年かけて、ダ・ヴィンチのほぼすべての作品を鑑賞した。ロンドンのナショナルギャラリーで開催された、これだけの作品が揃うことは二度とないという展覧会も雨中、三時間待って入場した。その折の感動は今も忘れない。少年が「普通の人」と言った『モナ・リザ』の面立ちは、普通ではないのかもしれない。 『糸巻きの聖母』は日本にやって来た彼の六作目の作品だ。やはり他の画家と違う、力が伝わってきた。今年からまた絵画の旅をはじめることにした。以前とは違って、ゆっくりしたペースだ。ダ・ヴィンチは少年の言葉とは逆に、私には怖いところがある。今年、この欄でその旅の話が少しできればと思う。一九五〇年山口県防府市生まれ。八一年、文壇にデビュー。小説に『乳房』『受け月』『機関車先生』『ごろごろ』『羊の目』『少年譜』『星月夜』『お父やんとオジさん』『いねむり先生』など。エッセイに、美術紀行『美の旅人』シリーズ、本連載をまとめた『旅だから出逢えた言葉』、『大人の流儀』シリーズなど。近刊に『それでも前へ進む』(講談社)、『無頼のススメ』(新潮新書)。最新刊に『追いかけるな 大人の流儀5』(講談社)、『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』(上下巻・講談社文庫)』がある。 7 Shizuka Ijuin
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