SIGNATURE2016年05月号
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デジタルメディアを通じておびただしい情報に埋もれている現代人だからこそ、この衣のような『間』が必要とされているのだと思います」禅の教えを視覚的に表現する伝統は、南北朝から室町時代を経て、江戸時代の禅僧、白隠慧鶴や仙厓義梵に受け継がれていく。 「布袋が画面の外の月を指で指している《指月布袋画賛》という仙厓和尚の絵がありますが、禅問答は『月をさす指』と言われています。禅問答の約1700の問いは多様な角度から月を目指すための手段なのですが、その『さす指(言葉や観念)に捉われてはいけないよ』というところが実はミソなのです。月を見なきゃいけない。でも、どうしても私たちは考えてしまう。だから、月ではなく月を指し示す役割を担っている指だけが見えてくる。指ではなく月を見るためには、身構えずに作品の前に立って、画僧や禅僧が絵を描き、書を書いていた時間と、彼らが後に署名と落款を押す、そのはくいんえかくほていせんがいぎぼん『間』にどれだけの想いが込められているかを感じることが大切です。そのために、禅の知識も、また国宝だとか重文だとかの判断もなく、虚心坦懐に絵や書に向かいあってみてください。そうすると『見るべき月』が見えてくるのではないかと思います。また、『坐禅をして得るものがありますか?』という質問をなさる方がいらっしゃいますが、私は『得るものはない』と答えます。何らかの見返りを求めようとする心根そのものが、問題なのだということですね。何かを得るためではなくて、何かを捨てるためにこそ、坐禅はあるのです。その捨てた先に実は『月』がある」心を空っぽにしてひたすら「今」と向き合うこと。つまり、過去の悔恨や未来への不安、日常のしがらみや嫉妬や懊悩などを全て捨て去ったところにこそ、本当の自分の心、目指すべき幸せの姿があるということだろうか。細川住職は語る。「アップル創始者のスティーヴ・ジョブスや、NBAのシカゴブルズ元コーチのフィル・ジャクソン、映画監督アレハンドロ・ホドロフスキー、日本のプロ野球史上に残る名選手・川上哲治が禅に帰依したのも、『今』と向き合う瞬間に『かけがえのないなにものか』を直観したからではないでしょうか」と。 一休宗純賛 伝曾我蛇足筆 室町時代(15世紀)|京都・真珠庵蔵*「禅̶心をかたちに̶」京都展前期(4月12日〜5月1日)展示 重要文化財りんざいぎげんぞう《臨済義玄像》えんこうそくげつず白隠慧鶴筆 江戸時代(18世紀)|東京・龍雲寺蔵墨蹟「放手沒深泉 十方光皎潔(手を放てば深泉に沒す、十方、光皓潔たり)」東京都世田谷区野沢3-38-1電話03-3421-0238http://ryuun-ji.or.jp/臨済宗妙心寺派33Information《猿猴捉月図》龍雲寺
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