SIGNATURE2016年05月号
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Number 92Hanase & Ise古屋のホテルでMさんが東京から仕事を終えて案内役で来てくれたのに合流し、バーで少し語らって早々に休んだ。早朝出発した私鉄は窓も広く、車窓の眺めが好きな私には嬉しい席だった。川が多かった。それは橋を何度も渡るということだが、少年の頃から鉄橋を憧憬していた。やがて松阪という街の名が出た。松阪は一度訪れていた。本居宣長の生家へ行った。文芸評論家の小林秀雄の『本居宣長』を読んだ後で訪ねた。本文中に宣長が伊勢神宮をこよなく愛し、『古事記伝』を書くきっかけになった賀茂真淵との出逢いや、真淵が伊勢参りにやって来たことが出て来た。そんなことを思い返しながら電車に揺られていると、何やら長い歳月逢うことがかなわなかった人を訪ねる心地がして来た。宇治山田駅の駅舎はなかなか風情のある建物だった。タクシーでまず内宮にむかった。宇治橋の前の鳥居に拝礼し、正宮のある右手を見たが破風の千木の突端は木々に隠れて見えなかった。橋の木の音を立てながら五十鈴川を見た。八本の立派な柱が水面から五、六メートルの高さにのびていた。Mさんに何の柱ですか、と訊くと、〝木除杭〟と言って、水量が増した折に上流から流れ出す木々で宇治橋がこわれるのを防いでいると言う。なるほどよくよく見れば大木もこの柱にぶつかれば勢いも弱まり、斜めになるように工夫してあった。合理的なのだ、橋の中央から神路山の稜線を見ると春の陽光に青くかきよけぐいはふちぎがやいていた。橋を渡り、振りむいた。二十年に一度の遷宮でたしか巫女が歩く姿がよみがえった。Mさんと橋の構造が見える川辺に降りた。一見、複雑に映る木組と構造はひとつひとつを観察すると、理にかなう造りになっており、日本の大工たちの技術力の高さに感心した。 「宮大工の中の船大工の手でこしらえているんです。ほら橋の彎曲が、船の底、土台の骨組に似ているでしょう」どんな人たちが、先年の遷宮の折、この仕事をしたのだろうかと思った。見事なものである。一の鳥居にむかって砂利の敷かれた道を歩く。砂利は、ぬかるみを作らないし、雑草も生えない。智恵である。火除橋を渡ると手水舎があり、御手洗をMさんに教わる。右手で柄杓を持ち、左手を洗い、次に右手。左手に水を受け、口をすすぐ。柄杓をタテにして戻す。こういう作法を生活の中で教わることがない。メモをした。メモをすれば十年忘れることはない。それはたとえば拝礼がそうである。「二拝二拍手一拝」が今は通例になっている。場所によって違うが、そう覚えておけば済むことだ。手水舎の先に五十鈴川が見えた。船着場のようにそこだけひらけていた。あれは? 体をかがめて同じようにした。冷たくて気持ちがよろしい。御厩に馬がいなかったのが少し残念だった。正宮に着き、頭を垂れた。かすかに木の香りがする。想像していたよ         6り大きくなかったことが、二千年の歳月を納得させる。正宮の右隣りにと訊くと、御手洗ができると言う。私は水辺に寄り、身てみずしゃこうべみたらしみうまや

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