SIGNATURE2016年06月号
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「何か昨日とは違うと思わないか」みずみずと言うのは私たちの日々の暮らしの中で、その日ひとつだけでも新しい、瑞々しいものと出逢うことがあったら、それは素晴らしい一日ではないか、と常々思っていたからだ。そこが伊勢の森、神宮だからそういう出逢いがあるのだろうか、とMさんの言葉を私はとらえていたのだが、その週末、仙台の自宅の庭で、早朝、犬とぼんやりとしていた時、どうもその考えは違う気がして来た。新しいもの、瑞々しいものは、それがどこか劇的なものに思っていたのは私の先入観で、いつもと同じように時間が過ぎて行く中に、そういうものが常に私たちの周囲にあるのではないか、と思いはじめた。そうしてあらためて、私は春の終りの朝の空を見つめ直してみた。すぐには気付くことはないけれど、たしかに昨日とは違う何かが目前にある気がした。私は犬に言うでもなくつぶやいた。犬は私の声に顔を上げたが、すぐにまた庭先に目をやった。彼が何を見ているのかは、私にはわからないが、彼もまた何かに、昨日と違うものを見ているのかもしれない。Mさんの映画の中で、宮大工の小川三夫さんが登場して、興味深いことをいくつか話していた。が千年もたない時は、その木を使って何かをこしらえた技術が未熟、または技術が悪いのだと言う。法隆寺のさまざまな建物に使用してある木が千数百年前のものでありながら今もまだ人々の前に毅然と建っていることでわかる。そのことは以前、法隆寺を訪ねた時に教えられ、この手で木肌に触れ実感はしていたが、伊勢の森の中にある神殿が二十年に一度建てかえることと無関係ではないように思えた。どう関係があるのかは今はわからないが、木が生き続けるということをもう少し見続ければ、その答えも出る気がする。庭から仕事場に戻り、仕事の準備をはじめた時、二十数年ずっと仕事をしている目の前の机を裏木曽の付知町から納品に来た早川謙之輔さんが、ぼそりと言われた言葉がよみがえった。 「伊集院さん、どうぞこの机で良い仕事をして下さい。この机は三百年は使えますから」その時は、三百年も生きませんよ、と笑って言ったが、実は早川さんが私におっしゃろうとしたことは、この机が三百年、机らしい生き方をして欲しいということではなかったのかと思った。どうしてすぐに気付かなかったのだろうかと、今はこの世にはいらっしゃらない早川さんにそれを伝えられなかった自分の浅はかさを悔んだ。年生きた木を使って、建物なり、木工品でもこしらえると、それは千年の間、きちんと役割りを果たしてくれるらしい。それ 第九十三回伊勢、仙台Number 93 Ise & Sendai          千6

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