SIGNATURE2016年06月号
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「どうだ。あと二百八十年は机の仕事をするらしいぞ」 「そうか、今日はそのことに気付いたというわけか。これも新しいもの仕事場の机は、栗の木である。或る文学賞を受賞した折、先輩、友人、仲間が私に贈ってくれたものだ。私は足元にいた犬を抱き上げ、机の上に立たせてみた。犬はきょとんとした顔をしていたが、同じ生命としてはなかなかの光景に思えた。おそらくあと数年しか彼と過ごすことはできないのだろうが、ちゃんと机も犬も今日を生きているのが素晴らしいことだ、と思った。のひとつだ。君のお蔭だ」私は犬とキッチンへ行き、家人には内緒でドッグフードをひとつ食べさせた。犬は尾を振り、もっとないかという顔をした。先述した宮大工の小川氏が映画の中で語った印象的な言葉があった。それは氏が若い時、西岡常一棟梁の下に入門した際、一番先に言われた言葉であった。 「これから一年、テレビ、ラジオ、新聞、仕事の本、そういうものにいっさい目を触れてはいけない。刃物研ぎだけをしなさい」という言葉だった。名人と言われた棟梁が若い弟子に言ったその言葉は、道具を自分と一体化させることの大切さだったと氏は語ったが、私には生きて行く時間のとらえ方に聞こえた。現代人は何もかも知ろうとして、日々の情報に目をむけるが、大切なものはそういうものの中にはないと語っているように思えた。          7私が伊勢神宮で見たものは〝真の時間〟であったのかもしれない。一九五〇年山口県防府市生まれ。八一年、文壇にデビュー。小説に『乳房』『受け月』『機関車先生』『ごろごろ』『羊の目』『少年譜』『星月夜』『お父やんとオジさん』『いねむり先生』など。エッセイに、美術紀行『美の旅人』シリーズ、本連載をまとめた『旅だから出逢えた言葉』、『大人の流儀』シリーズなど。近刊に『それでも前へ進む』(講談社)、『無頼のススメ』(新潮新書)、最新刊に『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』(上下巻・講談社文庫)』、『ガッツン! (双葉文庫)』がある。Shizuka Ijuin

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