SIGNATURE2016年07月号
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1877年、横浜に生まれた牧野金三郎は、貿易商だったイギリス人の父、ジョセフ・ヒギンボサムと日本人の母、キンの三男で、フレデリックという英語名も持つ。当時の日本で混血児として生きるのは、今とは比べようもないほど困難だったに違いないが、4歳で父を亡くした後も、国際的な港町である横浜という環境が幸いし、大きな苦労はあまりなかったようだ。彼が成人する頃には長兄がハワイ島ナアレフで商店を、次兄も父親の残した商館を営んでおり、弟妹を可愛がる優しい兄として、また母親を助けて一家を支える存在だった。彼の没後に出版された伝記『牧野金三郎伝』によれば、柔道の覚えもあり、上背のある牧野は喧嘩っ早いことで知られた半面、長唄などの座敷芸にも秀でていたため、遊興に耽る放蕩息子という、絵に描いたような三男坊だったらしい。ある日、吉原で遊び呆けた牧野はお座敷で大暴れし、その様子が新聞沙汰となってしまった。この記事を読み弟のことを憂えた次兄は、このまま日本にいては苦労知らずのままでよくないと、ハワイ島の長兄の元へ送ることを決めた。実はこれが牧野がハワイへ渡ることになった顛末である。なんとも大らかな時代背景と、彼の人となりを表す話ではないか。1899年にハワイに第一歩を記した牧野は、しばらくハワイ島の長兄の店を手伝ったり、コナの製糖会社で帳簿係を務めた後、1901年にオアフ島へ移り、ホノルル港近くのダウンタウンに薬屋を開業した。また店の2階に法律事務所も開設し、日本人移民の抱える出入国や離婚などの諸問題を調停するようになった。当時日本人弁護士は皆無、牧野自身も法律家ではなかったが、彼の人柄を頼って多くの人が相談に訪れたようだ。この頃、オアフ島各地のサトウキビプランテーションでは、日本人の労働環境が極めて悪く、増給を求めてストライキが始まった。牧野は指導的立場だったことで官憲に逮捕され、営業妨害の罪で有罪となり、約10か月入獄することにもなったが、日本人の権利を守るという大きな目標のために、その後も終始一貫闘い続けることとなる。第一章ハワイ日系人史のヒーロー右:シルエットからもわかる温厚な表情を湛えた牧野金三郎の胸像。現『ハワイ報知新聞社』社屋の中庭で、今もハワイの行く末を見守る。左:1899年にハワイへ渡った際に牧野が所持していた査証。彼の渡航当時は、旅券と査証共1枚の紙だった。行き先が漢字で『布哇国』と記載され、ハワイが王国だったことがわかる。右:『ハワイ報知新聞社』前社長、ポール円福氏は、引退後も毎日のように社に顔を出す。牧野の功績を次世代へ伝えたいと熱く語ってくれた。中:『ハワイ報知新聞社』現社屋の看板。左:『マノア日本語学校』現教頭の広江奈加子先生。1910年に創立された学校が今も存続しているのは牧野さんのおかげ、と感謝の言葉を忘れない。 Special FeatuteKinzaburo MakinoThe Path He Walkedin Hawaii32
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