SIGNATURE2016年07月号
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1912年の『布哇報知』(後の『ハワイ報知』)創刊以前、ホノルルでは『布哇新報』『布哇日日新聞』『日布時事』の3紙が発行されていたが、1907年のストライキで『日布時事』が労働者側、他2紙がストに反対し資本家側を支持したため、『日布時事』の人気は急上昇することになった。増給も叶い、ストの成果を喜んだのも束の間、牧野にとっては共に入獄し同志とも言える仲だった『日布時事』社長の相賀安太郎が宗旨替えをしたことで、日本人労働者を支える邦字紙がなくなってしまう。しかし、後発の弱みと有力者の支援不足をものともせず、『布哇報知』発刊に踏み切った牧野は、新聞という武器を片手に様々な活動を続けていく。彼の根幹には、日本人の権益と人権を守るという大きな命題があり、移民局を説き伏せて「写真花嫁」の集団結婚、通称「数珠繋ぎ結婚式」を廃止させたり、諸事情で上陸拒否や強制送還の憂き目にあった人々を救出するなど、権力に屈することなくその主義を通している。「牧野さんほど立派な人はいません。彼がハワイ在住日本人の権利と自由を守ってくれなかったら、今の私たちはなかったでしょう。牧野さんが日本人のために闘ってくれたことを、もっと多くの人に知ってほしいと思います」。こう語るのは、牧野の遺志を受け継ぎ『ハワイ報知』の前社長を務め上げたポール円福氏だ。「牧野さんが固めてくれた地盤があればこそ、太平洋戦争という難局も、日系2世米兵の活躍で乗りこえることができたのです。その後、ダニエル井上上院議員(故人)やジョージ有吉元州知事に代表される、行政の要職を担うまでに至った日系人の活躍によって、今日の日系人社会はさらに揺るぎないものになりました」。88歳という高齢を感じさせない円福氏の言葉は、牧野の貫いた主張を強く代弁するものだった。牧野が残した数多くの功績の中でもうひとつ特筆すべきは、日本語学校の廃絶阻止に尽力したことだろう。新聞を通じて、子女教育の重要性をことあるごとに説いていた牧野は、1919年頃から日本語学校を廃止しようとする動きが高まり、様々な規制が敷かれると、日本国総領事をも相手にする提訴を決意した。裁判は6年の長きにわたったが、牧野は連邦最高裁で勝訴、結果、廃止を免れた日本語学校は現在もその長い歴史を続けている。牧野がその創立時に理事の一人として名を連ねた『マノア日本語学校』現教頭の広江奈加子先生は、「牧野さんはお子さんがいなかったけれど、とても子供好きなところがあって、甥っ子や近所の子供たちをとてもよく可愛がったそうです。もちろん日本語学校の卒業生から心温まるエピソードも聞いていますよ。私がこうして先生を続けていられるのも、牧野さんのような方がいらしたおかげね」。そう話す彼女の笑顔には、牧野の温かい人柄が透けて見えるような気がした。右・中右:ダウンタウンからほど近い丘陵地に広がる、ヌウアヌ記念公園に眠る牧野。イタリア製大理石の墓碑とそれを囲む丸屋根の石塔は、緑の美しい霊園の中、遠くからもひときわ目立つ。中左:『布哇報知社』創業時、事務所兼印刷所として使っていた建物が、今もダウンタウンの一角に残る。暴挙とも言われた未経験者による新聞発行は、苦労も多かった。左:ホノルル港のシンボル、アロハタワー。1926年の完成以来、多くの人や船の往来を見守ってきた。右:父親の代からハレイワでグローサリーストアを営むスタンレー松本氏。店のシェイブアイス(かき氷)は、日本人だけでなく世界中から訪れる観光客に大人気。中右:古い町並みを残すハレイワ。日系人が多く住み、建物の屋号にはミウラ、ヨシダの名前が。中左:ハレイワ同様サトウキビ産業で栄えたワイアルアには、1996年まで製糖工場があった。左:90歳でも現役で足踏み式ミシンを操るキャサリン川口さん。ハレイワの実家『ミウラストア』に長く勤務した。 34
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