SIGNATURE2016年07月号
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Number 94 ̶̶日本人を知るのには仏像はひとつの象徴かもしれない……。̶̶なんとやわらかな表情をしているのだろうか……。展覧会が終った後もしばらくパンフレットや購入した写真を壁にピンナップして見ていた。同時に妙な感慨が湧いた。と考えはじめた。名刹、仏像に詳しい人を探すと、小説の担当編集者が趣味で寺社を巡っているとわかった。その人に案内してもらい、月に一度旅へ出た。興福寺、法隆寺、室生寺、當麻寺、橘寺……、その旅で中宮寺を訪ねたのは、旅の、二年目の初夏だった。淡い雨に咲く斑鳩の道端の紫陽花の花弁が濡れているのを見ながら中宮寺の御堂に入ると、弥勒菩薩はひっそりと佇んでいた。黒漆塗りの肌が雨滴に抜ける六月の陽光の中で生きているかのように艶やかだった。私は思わず息を止めた。それまで鑑賞して来た仏像とはまったく違うものが漂っていた。台座の上にすわり、右足を左膝の上にかけ、その右足首を左手が軽く握り、右手の指先がやわらかくまがり菩薩の右頬にふれていた。半跏思惟像である。半跏思惟像は写真では見知っていたが、本物に間近で接すると、像全体から漂って来るものは、やはりそれまで見た他の像とは違っていた。どこか微笑しているように映る面立ちもそうだが、像全体から伝わって来るものに親しみを感じた。いかるがはんかしゆいぞうたいまでらくろうるし̶̶これを一目見た天平の人々はさぞ感銘を受けたことだろう。閉じた目と、半跏の姿勢、そして何かを想っているかのような表情は祈りの対象の仏像と言うより、鑑賞する人の内面までを平穏にしてくれそうなやわらかさがあった。三年余りの仏像を巡る旅の後、私はヨーロッパへ絵画の旅に行くようになり、仏像とは遠ざかる暮らしになった。南北国境のある雪景色の三十八度線近辺の山河を見て回った。一日ソウルに滞在できたので、案内してくれた人に、もう少し韓国の歴史を知りたいと申し出ると、国立中央博物館をすすめられた。雪の舞うソウルの街を見ながら博物館に行くと、その展示物の充実振りに感心した。奥へ進んで行くと、ひときわ人だかりのするコーナーがあった、中に入ると少し照明を落した場所の中央に大きなガラスケースの中に金色にかがやく一体の仏像が展示してあった。韓国国宝78号の半跏思惟像であった。私は驚いた。すぐに中宮寺の半跏思惟像の姿が浮かんだ。目の前の78号の半跏思惟像は中宮寺に比べると金箔が残り、ほとんど裸体の中宮寺の菩薩と違って、宝冠、胸先の装飾があって威厳があったが、それでも仏像の表情には何かを瞑想しているようなやわらかさがあった。年前の冬、私は韓国へ、その頃執筆していた朝鮮半島を舞台にした私の父をテーマに書いた小説の取材で出かけた。てんぴょうNara & Seou 三 l6
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