SIGNATURE2016年10月号
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絵・モリナガ・ヨウ 写真提供・松竹株式会社1603年、江戸幕府とともに生まれ、400年の時を超え、日本人の魚食文化の中核を担ってきた魚河岸。日本橋からいまの築地に移ったのが、関東大震災から復興した昭和のはじめのこと。魚河岸から魚市場として近代化されても、男衆の気っ風のいい掛け声と、江戸っ子気質がいまも生きつづける。移転の潮目を迎えつつある。しかし、失われゆく昭和の河岸の風景と人情は、映画やイラストの中に、たしかに定着された。築地魚河岸の添景Special FeatureTSUKIJI,The World-famous Fish Market and Beyond東京湾に向かって扇を広げたような形の大屋根。扇形の外側から要に向かって1000番から8000番までとイロハニの12列、扇の骨にあたる7本の大通路を含む14本の通路で細かく区割りされた場所に、現在は約600軒の仲卸が軒を連ねる。戦後すぐの築地市場の水産仲卸棟には、1600もの店がひしめいていたという。写真:映画『築地ワンダーランド』より ©2016 松竹江戸の繁栄を象徴する魚市の賑わい。日本橋魚河岸は1600年代初頭、日本橋と江戸橋の間に開設され、江戸の近海はもとより、遠豆相房(遠州・豆州[静岡]、相州[神奈川]、房州[千葉])、両総(上総・下総[千葉])各地から魚が集められ、以降、三百余年にわたって江戸の食を支え続けた。歌川広重画『東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図』天保(1830〜43年)中頃 国立国会図書館蔵細かく区割りされた仲卸棟は、大物(マグロ)、鮮魚(アジやサンマなどの大衆魚)、特種物(料亭や寿司屋に魚を卸す店)、合物(干物類)、塩干魚(シラス、ちりめんなど)、煉・加工品(ねりもの)、淡水魚(アユ、ウナギ)など、特化した仲卸がひしめく。一品専門の店の形態は日本橋時代の名残。発泡スチロールの箱がうずたかく積み重ねられ、迷路のように入り組んだ狭い通路を小型運搬車ターレが行き交う。通路は、一辺10センチほどのピンコロ石と呼ばれる花崗岩で敷き詰められた石畳。 モリナガ・ヨウ著『築地市場 絵でみる魚市場の一日』(小峰書店)より明治の近代化によって不衛生な施設の移転を余儀なくされていた日本橋魚河岸は、1923年(大正12年)の関東大震災の業火によって壊滅。代替地として、焼失した海軍造兵廠跡地を借り受けて臨時の東京市設魚市場を開設したのが、築地市場の始まりである。帝都復興計画の一部として、現在の築地市場が完成したのは、1935年のこと。写真:映画『築地ワンダーランド』より ©2016 松竹80年の年月を経て、老朽化が目立つ施設は、36

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