SIGNATURE2016年10月号
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Number 96 Sendai, NewYork, Nice &Venceをめぐる旅をした時は、美術館で買い求めたミロや、クレー、モランディのカレンダーもあった。世界のゴルフ場を取材していた頃は美しいゴルフコースのカレンダーも掛けられていた。エレベーター・リフトの製作会社から、めくる度に童話の世界の切り絵のようなものが立体で飛び出すカレンダーは犬たちに人気だ。最初に書いたように、カレンダーには、迎えるべき明日の時間への光のようなものが感じられる。今は少し大変でも、きっと良い時間が来るさ、と、その日付けを眺める。い時分、制作プロダクションに夜のアルバイトへ通っていた頃、カレンダーの制作をしたことがあった。たしか日付けの数字のことを、タヽマヽと呼んでいた。ちいさなプロダクションだったからタマを間違えたら会社は倒産してしまいますからね、と社長に言われたのを覚えている。カレンダーの企画は、年が明けたらすぐにはじまった。一年後のカレンダーである、あの頃は、いろんな会社がさまざまなカレンダーを制作していた。航空会社のカレンダーは世界の主要都市の美しい場所で、その国の美しい女性が登場し、トルコには美人がいるんですね、などと会話をしていた。製油会社が収集した仙厓の禅画、書を一年にわたって紹介したカレンダーは切り取って額装にしたりした。私の後輩の写真家が、夜明け前に富士山の麓へ行き、そこで撮影した富士山にかかる雲に朝陽が当たり、その雲が龍に見えるので、開運のカレンダーにしているものもある。世界中で一番カレンダーを多く制作しているのも日本と日本人である。それを知ると、日本人は希望や、明日への願いを他の国の人より抱いているのかもしれない。Tさんからのマティスのカレンダーを眺めていて、〝ジャズ〟シリーズや〝サーカス〟をニューヨークで鑑賞した時間がよみがえった。同時に、これらの作品を画家が制作していた南仏の風景が思い出された。一九四一年、七十二歳のマティスは十二指腸癌の手術をしたが、手術の後遺症が残り、車椅子での生活を余儀なくされた。絵筆を握ることが不自由になった。それでも画家の制作意欲はおとろえることはなく、マティスは着色した紙をハサミで切り抜き、これを貼り合わせて〝マティスの切り絵による世界〟に挑んだ。ハサミで切ったパーツを長い棒の先の針で刺し、これを壁に貼り付けて行く。当時のマティスの制作中の写真を見たが、これがなかなかユニークで、壁の上部、天井に近い場所に画家は丁寧にパーツを貼っていた。この写真を見ていて、マティスの切り絵を鑑賞するのに最適な距離のことを私は思った。画家が作品を制作した距離こそが、その作品を鑑賞する最良の距離なのだ。私は何か発見でもしたような気持ちになり、ヨーロッパから大西洋を渡ってニューヨークへ行き、美術館でそれらの作品の前に立つと、なんと美術館のガイドブックに同じことが説明されていて、それはそうだな、と恥かしくなった。南仏は、晩年のマティスを抱擁してくれた場所である。ヴァンスへ行 8るロザリオ礼拝堂がある。けば、マティスが描いた聖母子像と美しくかがやくステンドグラスのあ
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