SIGNATURE2016年11月号
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りょせんしんのうろれつりょきょくりっきょくりつせんえんりゃくおうみのくにさいうんほうまんどころ「三千院」を号し、大原の中心的寺院として現在に至っている。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三    最も重要な法要に位置づけられ、毎年5門跡寺院の一つに数えられる三千院。屋根瓦の菊の御紋など、皇室との縁を物語るものも多い。御所の紫宸殿を模して造られた、玉座の間を持つ宸殿では、かつての宮中行事が今も執り行われている。歴代天皇の回向とこの世で犯した罪を懺悔する御懴法講だ。平安末期に後白河法皇が始めたこの行事は、今では三千院の月30日に、比叡山と大原の僧がここに集い、声明と雅楽を併せて法会を行い、祈りを捧げている。宸殿の前には、池泉回遊式の有清園が広がっている。目を見張るのが、杉や檜の木立の根本を覆いながら庭一面に生える苔の絨毯だ。木々の合間に見えるのは、往生極楽院。この単層入母屋造りで柿葺きの簡素な堂宇は、寺伝によると寛和2年(986年)に『往生要集』を記した源信が父母の菩提を弔うために建立したもの。平安期よりこの地で祈りを受け止め続けてきた。浄土への極楽往生を願い、一心に念仏を唱え続ける常行三昧が行われてきた堂内には、国宝の阿弥陀三尊像が鎮座している。来迎印を結ぶ阿弥陀如しょうれんいんおせんぼうこうししんでんえこうほうえゆうせいえんじょうぎょうざんまいこけらぶすす来の両脇では、観世音菩薩と勢至菩薩が優しい微笑みをたたえる。「倭坐り」と呼ばれる前屈みの正座姿の両脇侍は、衆生を救わんと西方浄土より訪れ、今まさに彼岸へと向かう様子を表しているという。また、堂内の天井や壁には、極楽図が描かれている。1000年にわたる灯明の煤によってすっかり色あせてしまっているが、宝物館では当時の彩色を再現したものに出合うことができる。薄暗い堂内に座し、平安期より変わらぬ眼差しを向ける三尊と対峙すると、すっと感覚が研ぎ澄まされていく。境内を抜ける風や葉擦れの音、山里特有の湿度を伴った空気を感じ、郷愁と安堵感に包まれる。やまとずわ三千院こさつ呂と律が声明回のら呂な曲いのと律呂曲律。とそはれ、もにちともなんだ川、呂川・律川の二つのせせらぎをさかのぼるように山道を進み、石造りの魚山橋を渡ると、城塞のような石垣の上に立つ三千院に着く。寺院が三千院の名で呼ばれるようになったのは、比較的新しく、明治4年(1871年)のこと。それ以前は、円融房、円徳院、梶井宮など数々の名で呼ばれていた。寺名の変遷は、三千院が歩んだ激動の歴史を物語る。寺の起源は、平安期の延暦年間に比叡山延暦寺の東塔に建てられた円融房。霊山内の堂は、やがて近江国・坂本の梶井里に移り、老僧の住居・里坊となった。平安末期、時の権力者白河上皇は、拡大する僧兵の力を抑えるため、孫の最雲法親王を入寺させ、比叡山を支配下に置くことを画策。これをきっかけに、寺は皇族が住職を務める門跡寺院となった。後年、第49世天台座主となった法親王は、朝廷から領地として賜った大原に、寺院を統括する政所を設置。梶井里の寺院は二度にわたり焼失し、各地を転々とした後、大原へと移った。江戸期には洛中に本坊を構え明治維新を迎えるが、廃仏毀釈によって本坊が廃止。仏像や寺宝は大原の政所に移され、かつての持仏堂の名念仏修行に専心する僧たちが、比叡山を下り、数多くの道場を開いた大原。この地随一の古刹には極楽往生を願う人々の祈りが今も息づいている。隠れ里に開かれた極楽、求道の門跡寺院Sanzen-in TempleinformationSpecial FeatureOhara, KyotoThe Quiet Call of a Rustic Village32上:客殿の瓦には菊の御紋が刻まれている。三千院が門跡寺院であることの証し。下:写経などが行われる円融房と客殿を結ぶ渡り廊下越しに、茶人・金森宗和が修築した聚碧園を望む。京都市左京区大原来迎院町540電話:075-744-2531拝観時間:8:30〜17:00(閉門17:30)※12月8日〜2月末日までは9:00〜16:30(閉門17:00)www.sanzenin.or.jp

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