SIGNATURE2016年11月号
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夏なら競馬、ゴルフ、そして何よりカジノがある。パリの一流ブティックも、夏だけ店を出している。しかし私は、この町の冬の風景が好きである。最初に訪れた時が、冬であったこともあるが、避暑地の冬というものは妙に風情があっていいものだ。だから長く住んだ湘南のホテルにいた時も、冬の寒々とした海景が好きだった。終着駅と書いたが、終着駅は、そこから電車に乗る人には始発駅でもある。始発駅でよく見かける情景に、若い人が家族に見送られて、都会へ行く、しばしの別れの風景がある。心配そうに娘なり、孫を見つめる家族と、どこか瞳をかがやかせて、都会への夢があふれた若者の表情は対照的である。度、乗ってみたい、始発駅、終着駅がある。駅舎もなかなか風情があり、ここを乗り降りした人々の時間、歴史、感情のようなものが駅舎から伝わって来る。スペイン、バルセロナにある〝フランサ駅〟である。ヨーロッパを一年の半分近く旅をしていた頃、一番よく滞在していたのがパリで、その次がたぶんバルセロナであったろう。ところが、その頃の私の旅は取材をいくつかかかえての旅で、移動はほとんどが飛行機であった。忙しかったのだろう。今思うと、急ぎ過ぎていた旅に思える。その当時でさえ、フランサ駅の駅舎を見ると、この電車に乗ってパリへ行く旅も、さぞ愉しいだろうと何度か思った。二十世紀のはじめ、この電車に乗ってスペインからガウディ、ピカソ、ミロ、ダリ、詩人のロルカたちがパリへ行き、カフェ・ドゥマゴやカフェ・ド・フロールで新しい芸術運動に血をたぎらせていた時代があった。逆にパリからやって来た人たちは、バルセロナのバルや酒場で熱い語らいをした。バルセロナに今もあるカフェ〝クアトロ・ガッツ(四匹の猫)〟がそうである。シュルレアリスムの波がヨーロッパの各都市の若者に支持をされていた時代だ。芸術運動の歴史を見ると、都市と都市がつながる時が多々ある。そのふたつの都をつないでいたのは鉄道であり、駅と駅であった。十数年前、パリとバルセロナが情熱的につながっていた時代の展覧会が、パリとバルセロナで催されたことがあった。二冊の本がその展覧会のために出版され、フランス語版は『パリ、バルセロナ、熱き時代』、もう一冊はスペイン語版で『バルセロナ、パリ、熱き時代』だった。展示物には、〝シュルレアリスト宣言〟をパリでした折の、ミロ、ロルカ、ピカソなどの絵画作品、詩集、芝居の写真に、ふたつの都市で共通に使われた家具、ファッションなどが紹介してあった。芸術家の紹介もそうだが、感心したのはパトロン以外の大勢の人々が、このふたつの都市を往復して過ごすことを愉しんでいた点だった。おそらく〝オリエント急行〟にも、それに似た人々の熱気があったのだろう。パリとバルセロナの熱い時代は、スペインがフランコ政権の統治になって終焉を迎えることになる。Number 97 Paris &Barcelona                8

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