SIGNATURE2017年01_02月号
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なぜか馬券で失ってしまう金も仕方ないか、と思うところがあった。そういう私の話を聞いた競馬記者がいて、その夏、私を、競走馬を生産し、育てている土地へ案内してくれた。札幌から苫小牧を経て日高本線に乗車すると、気持ちもワクワクしたが、それ以上に車窓に海が見えた時の喜びはひとしおであった、喜びはそれだけではなかった。右を見れば夏の陽光にかがやく海原、左に目をやれば、まぶしく光る牧草地に放牧された競走馬がいたからである。ふたつの牧場に宿泊させてもらった。牧場の人は皆こころやさしく、競走馬を我が子のように思って、ともに暮らしていた。その折、私は牧場の柵に腰かけて馬を見ている何人かの地元の少年、少女を見た。二度目の訪問は二十年前の初夏で、日高に一時間も滞在できなかったが、日高の海をどうしても見ておきたかった。私は海にむかって目を閉じ、一人の若者の冥福を祈った。そうすることしかできなかった。の若者と初めて出逢ったのは一九八八年だった。その年に中央競馬界に新人騎手としてデビューした。彼は新人騎手ながら四十四勝を挙げ、天才、武豊騎手の記録には及ばなかったがその年のJRA賞最優秀新人賞を獲得した。その若者を私に紹介してくれたのが、兄弟子の武豊騎手だった。京都の小料理屋で逢った時、まだあどけなさが残る顔を見て、これがあの突貫小僧のようなレースをしている騎手なのか、と正直驚いた。翌年も大活躍し、夏の札幌競馬で五連続騎乗勝利を挙げ大きな話題となった。一九九一年の暮れ、東京の酒場で、私と妻は武豊騎手に連れられて来た彼と再会した。この年、彼はエリザベス女王杯をリンデンリリーでGⅠ初制覇をしていた。妻の隣りに座った彼が少し嬉しそうに妻に言った。 「これ良かったらどうぞ」差し出したものはリンデンリリーの勝利記念に関係者がこしらえたテレフォンカードだった。マニアがそれを欲しがるのを私も知っていた。 「そんな大切なものなら悪いからいいわ」と妻が言うと、彼ははにかんだ顔で言った。 「いいよ。上げるよ。あまり人に見せちゃダメだよ」帰り道に妻が、 「あんなに澄んだ目をした人をひさしぶりに見たわ」と気持ち良さそうに言った。二年後の春、京都競馬場で落馬事故があり、落馬した若者の頭を後続馬の脚が直撃した。二週間後、治療の甲斐なく亡くなった。武豊騎手の落胆振りは見ていて切なかった。その年の夏、武豊騎手は、彼の故郷である北海道様似町まで出かけた。まだ墓ができていなかったが、電話のむこうで、彼の、いやあんなに美しい海は初めて見ました、という言葉を聞き、私も少し安堵した。それから七回忌が終るまで、武騎手は、毎年、墓参に訪れていた。七年前の夏、私は日高本線に乗った。小説の取材を兼ねていた。取材の時間を調整して、墓参に行くつもりだった。 第九十九回北海道・様似町Number 99 Samani, Hokkaido10      そ           

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