SIGNATURE2017年03月号
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たのではなかろうか。  実際、幼い頃の龍馬は甘えん坊で泣き虫であったという。身分の低い郷士とはいえ「男一匹、それではナラヌ」と心身の鍛錬を買って出たのは、3つ年上の姉・坂本乙女。彼女は子ども時分から体格がよく、気丈夫な性格だった。働き者で男まさり。高知で言うところの「はちきん」そのもので、長じてからの身長は176センチほど、体重は113キロに及んだというから、そんじょそこらの男衆はとてもじゃないが太刀打ちできない。乙女は龍馬を連れ出し、市街地を流れる鏡川で水泳の特訓を行ったり、剣術の相手となって、末っ子の龍馬を一本筋の通った男へと教育していった。  後年、土佐藩を脱藩した龍馬は、赴いた日本の各地から多くの手紙を乙女宛てに送っている。幼少期からの自分を知り尽くしている安心感からか、彼にとって最も心情を吐露しやすい相手だったと推測できる。  太平洋を望む桂浜の近くに構える『坂本龍馬記念館』には、龍馬が残した巻物の手紙が数多く展示されている。大政奉還の2日前にしたためられたも©HIROSHI YAGI/orion/amanaimages 朱塗りのはりまや橋から西へ2キロほど離れた場所、路面電車が走る大通りに面した一角に、その碑は立っている。高知市上町1丁目。石造りの碑には「坂本龍馬先生誕生地」の文字が刻まれている。そこにそれがあると知らなければ、気づかずに通り過ぎてしまいそうなほど慎ましい。生家は戦災で焼けて跡形もなく、現在は病院が碑に隣接している。  江戸の昔であれば、高台にそびえ立つ高知城が何の苦もなく仰ぎ見られたはずだが、昭和・平成と時を重ねて立ち並んだビル群が、鷹城(高知城の別名)への視線を遮っている。  坂本家は、郷士の家系。郷士とは、純然たる武士ではなく、農業や商業を本業としながら、ひとたび事が起これば帯刀して難に立ち向かう立場にある。いわば非常勤の武士。地位は高くないものの、商いは順調で、龍馬を取り巻く経済環境は十分に裕福だった。兄弟姉妹、龍馬自身を含めて5人。ふた回り近く年の離れた長兄を筆頭に、3人の姉。龍馬は最も年少の次男坊であった。商家であるから使用人も多く、想像するに一家のアイドル的な存在だっのや、彼が組織した「海援隊」の約規を記したものなどに交じって、ひときわ目を惹いたのが、愛妻・おりょうさんと薩摩(霧島)へ新婚旅行に行った時の楽し気な内容の手紙(複製)。仲睦まじく登った高千穂峰での出来事を、洒脱な挿絵を添えて乙女宛てに送ったものだ。挿絵には登頂のルートを示す朱筆の線も描かれている。  数多の幕末の志士の中でも、龍馬は群を抜いた人気を誇る。それは彼がガチガチの思想家としてではなく、人なつっこさを折々に見せる理想家であったからだとも思える。坂本龍馬が生まれ育った街・高知。生家はなくともこの街を歩けば、彼の志に、ほんの少しでもあやかれるような気がする。 あまた生まれ育った土佐の地から、18年後の1853年(嘉永6年)、ペリーが黒船を率いて日本に開国を迫る。 龍馬は羽ばたいていった1835年(天保6年)11月15日、坂本龍馬は高知城下に生まれた。 時代は、動乱の幕末期へとなだれ込み、ひとりの傑物が立ち上がる。 高知28取材協力・高知県観光コンベンション協会左の写真は『龍馬の生まれたまち記念館』内庭に立つ石碑と像。石碑には龍馬の手紙の有名な一節「日本を今一度せんたくいたし申候」の文字が刻まれている。腕を組んで立っているのが“坂本のお仁王さま”とも呼ばれていた姉の乙女。実際にはもっと大きな体躯だったであろう。座っている龍馬像は、現存する写真を元に造られた。龍馬の生まれたまち記念館高知市上町2-6-33 電話088-820-11158:00~19:00(最終入館18:30)年中無休

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