SIGNATURE2017年03月号
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 坂本龍馬をシティボーイとするならば、盟友の中岡慎太郎は山間の村で生まれ育ったカントリーボーイだった。高知市から東へおよそ60キロに位置する北川村。そこには彼の生家が復元されている。緑の山々は色濃く、名産の柚子を実らせた木々の畑が点在している。無骨なようでいて鮮やかな黄色い果実。おそらく慎太郎が目にしていた光景と大きくは変わっていないだろう。茅葺きの屋根も室内の畳も近年のものとはいえ、凛とした佇まいは、その後の彼の生き方と一脈通じている。  彼も実家が由緒ある庄屋であったから、経済的には恵まれていた。幼い頃から、8キロに及ぶ山越えの道やまあいを歩いて学び舎に通い、10代の半ばには塾の講師の代役を任されるほどの秀才だった。  天才肌の龍馬と、努力家の慎太郎。龍馬は慎太郎を次のように評した。 「私と彼の意見は時として合わない。けれども彼と語る以上に、語るにふさわしい相手はいない」  薩長同盟締結後、倒幕に向けて海援隊を起した龍馬と、陸援隊を指揮した慎太郎。時代を駆け抜けた二人の英傑は、京都近江屋で刺客に襲われ、絶命に至った。 太郎30歳。柔と剛のように一対となって時代を駆け抜けた両雄は、明治維新を目の当たりにすることはできなかったが、彼らの存在が近代日本の扉を開ける鍵であったことは間違いない。 数えの年齢、坂本龍馬33歳、中岡慎時に激論を戦わせた盟友、中岡慎太郎の生家は山里にひさしいみななおなり高知市から東の太平洋沿いの地域の古い家では「水切り瓦」という小さな庇のようなものが白壁に設けられている。台風などがもたらす強い雨から壁を守る働きがあると同時に、装飾としてその家の経済力を示す証しともされていた。右は中岡慎太郎像。北川村の『中岡慎太郎館』の前に立つ。慎太郎の前名は光次。『中岡慎太郎館』には、その名で記された書状(複製)も展示されている。ちなみに龍馬の実名(諱)は直柔であった。下は、昭和40年代の初めに発見された中岡家の見取り図を元にして復元された中岡慎太郎の生家。周辺は、林、畑、山。やSpecial FeatureThe Towns and Times of Ryoma中岡慎太郎館高知県安芸郡北川村柏木140 電話0887-38-86009:00~16:30(最終入館16:00)火曜定休(祝日の場合はその翌日)・年末年始(2月24日まで臨時休館)高知

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