SIGNATURE2017年03月号
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 1862年(文久2年)に土佐藩を脱藩した龍馬は、しばらくの間、江戸に身を置いたり、勝海舟の薫陶を受けて海軍塾で学んだりしながら、新しい時代を模索していた。海舟は幕臣でありながらも龍馬という人物を高く評価していたようで、諸々の仲介をして、土佐藩から「脱藩の罪を赦す」という一文も取り付けた(その後、再び脱藩)。龍馬もまた、立場に縛られることなく〝オールジャパン〞的な発想で、日本に強力な海軍を創設しようと尽力した海舟に敬意を抱いていた。  しかしながら、彼らの海軍構想は実を結ばなかった。生き急いでいた感もある龍馬にとっては、遅々として進まない時計の針に苛立ちも覚えたに違いない。行き場を失った龍馬に手を差し伸べたのは、薩摩藩だった。近代的な船に関する知識や航海術を持っていた龍馬を取り込んで、薩摩藩として自前の海軍を整備したい、独自の交易も行える商社も立ち上げたい。その思惑を受けて、1865年(慶応元年)、龍馬は鹿児島を経由して長崎に入った。長崎は江戸時代、蘭学をはじめとする最先端の文化がもたらされてきた日本の〝窓〞といえる街。その風通しのよさは、坂本龍馬という〝自由人〞によく似合った。彼が起こした貿易結社『亀山社中』については、ページをめくった稿に詳細を委ねるとして、ここでは、龍馬も足繁く通ったといわれる『史跡料亭花月』にスポットを当てる。  創業は1642年(寛永19年)。店を構えているのは長崎の丸山。その昔は、江戸の吉原、京都の島原と共に三大遊郭として栄えた場所だ。当時の屋号は『引田屋』といい、800坪もの庭園を有し、洗練された料理で客人たちを迎え入れてきた。世襲制度を続けてきた女将は16代目までで、それ以降は血縁に関係なく、代を継いでいる。現在は24代目がその任にあたっている。  ここで特筆すべきは、2階の大広間「竜の間」の床柱に残されている刀傷。真偽のほどは定かではないが、ある日、医者の松本良順と遊びに来た龍馬が、どういう経緯からか、刀を抜いて複数の傷を付けたとされる。良順は長崎でオランダ軍医からの教えを受け、長崎海軍伝習所にも赴任していたことがあるので、進取の気性に富んだ龍馬にとっては興味深い人物であっただろう。しかし同時に、良順は新選組局長の近藤勇とも親交があった。龍馬と新選組は水と油の関係にあったわけだから、ひょっとすると、そのあたりに話が及び、酒の勢いも手伝って、刀を抜いたのやもしれぬ。  通常であれば〝出入り禁止〞通達がなされてもおかしくない狼藉だが、なぜだか、愛すべき武勇伝として語り継がれているところが龍馬らしい。彼は藩などの窮屈な枠に収まらないフリーランスの武士であり、起業家の走りであり、タフなネゴシエーター(交渉人)であった。彼は常に、早すぎる時代を生きていた。 取材協力・長崎県観光連盟江戸時代の日本に開いていた〝窓〞、長崎の自由で闊達な空気が、 龍馬の野心、野望を今一度焚き付けた。この国を変えたい。守りたい。 無所属の武士として。そして、時代に先駆けた起業家として。 龍馬もたびたび訪れた、史跡料亭『花月』での宴長崎しっぽく 32龍馬がつけた(とされる)刀傷が残る「竜の間」。これを見るだけでもこの店を訪れる価値がある。この大広間は、国賓の晩餐会にも使われる。庭園を座ったままで楽しめ、趣向を凝らした卓袱料理を堪能。館内に設けられた博物館ともいえる「集古館」には、龍馬直筆の書なども展示されている。史跡料亭と銘打つにふさわしい空間だ。庭から「竜の間」を眺める。基本的な姿は元禄時代に整えられたといわれ、今も風情豊かに内外の来訪者を迎えている。絢爛たる卓袱料理と相まって、長崎は見聞する何もかもが味わい深い。史跡料亭 花月長崎市丸山町2-1 電話095-822-019112:00~15:00(L.O.14:00)/18:00~22:00(L.O.20:00) 不定休(主に火曜)

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