ゲーラテイはプ16ツ歳ィのヒ時大に学父での法意律向をに学従ぶいた、めに、フランクフルトから東へ、馬車で旅立った。ゲーテ生誕の地であるフランクフルトから終焉の地・ワイマール、学生時代を過ごしたライプツィヒまでの約400キロメートルの街道を、ゲーテは生涯に何度となく行き来し、その体験を基にした作品を世に送り出している。いわば、この街道はゲーテ作品の〝生みの親〞でもあるのだ。 そして彼が帰省する度に必ず立ち寄ったのが、壮麗なバロック建築を誇る街・フルダだ。当時は、交通手段として利用していた郵便馬車の停泊地だったため、フルダで必ず1泊しなければならなかったからだ。ところが、豪を深く愛した。 ゲーテは23歳の時、高等法務院(神聖ローマ帝国の最高裁判所)の法律事務研修生として、田舎町のヴェッツラ奢で気高い印象を与えるその街並みに、古典主義を唱える若かりしゲーテは馴染めなかったという。そんなフルダでは、川を遡上してくるサケやマスの魚料理が、ゲーテのほかならぬ楽しみだったといわれている。 ゲーテは、生涯にわたってよく旅に出た。時に数週間も自分の足で歩いた。そんなゲーテは自らを「旅人」と呼び、同時に、人生という旅の途中で巡り合った自然や女性たちーに赴いた。その間、知人が開いた舞踏会で知り合った娘、シャルロッテに恋をする。しかし、彼女にはすでに婚約者がいたのだった。 叶わぬ恋にゲーテは熱烈に燃え上がるが、やがて失意とともにヴェッツラーを去った。この傷心体験を元に、25歳の時に書き下ろしたのが『若きウェルテルの悩み』だ。 ドイツのほぼ中央に位置する豊かな森に囲まれたアイゼナハは、J・S・バッハが生まれ、マルティン・ルターが「我が愛する街」と謳った。ゲーテもたびたび訪れ、街の背後の原始林に覆われた丘陵と、緑深い森を見渡すヴァルトブルク城が好きだったという。 ヴァルトブルク城の基礎が築かれたのは、1067年。城は数世紀にわたり増築されているため、ロマネスク、ゴシック、木組みと様々な時代の建築様式が見られる。 この城には数多くの歴史秘話が刻まれている。12世紀には、欧州各地から貴族出身のミンネゼンガー(恋愛歌人)が集まり、城内の大広間で歌合戦が盛んに開かれた。その様子が、後にワーグナーによって世に送り出された『タンホイザー』である。また、16世紀には、フリードリヒ3世の庇護を受けたルターが城の小部屋で、ギリシャ語の新約聖書をドイツ語に訳し、聖書を万人のものにするという歴史的偉業を成し遂げた。ルターを尊敬していたゲーテは、自身がワイマール宰相となってから、一時は荒れ果てた城の保護と修「人生において重要なのは 生きることであって、生きた結果ではない」ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテFulda聖人・ボニファティウスが見守るバロックの街・フルダ。9世紀に建てられた教会堂にはボニファティウスが眠るため、フルダは巡礼地の一つとなっている。また、ここはブラウン管の発明者の出生地でもある。38フルダ
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