SIGNATURE2017年04月号
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 カス・ダマトは二年で少年を、若者をチャンピオンにする計画を立て、日々ハードなトレーニングをさせ、着実にデビュー戦から勝利し、一年半でマイク・タイソンという素晴らしいチャンピオンを誕生させた。 世界で最強のヘビー級のチャンピオンになった王者はむかうところ敵なしであった。 しかしすでに老いを迎えていたカス・ダマトが亡くなる。 そこからタイソンの悲劇がはじまる。 カス・ダマトが生きている間はできていた自制心が崩れて行く。豪邸に住み、何百羽のハトを飼い、庭にはタイガーまでペットとして住まわせる。果てしない浪費が続く。妻に暴力を振るい、対戦相手との記者会見で暴力沙汰を起こす。アメリカの各州が彼のファイトを許可しなくなる。 私は、そんな状況下でのタイソンのファイトを三度、観戦した。インタビューを申し出ると法外なインタビュー料を要求された。それなら実戦を見るしかない。間近で観戦したかった。リングサイドは日本円で百万円以上したが何とか工面して観戦した。初めての観戦でタイソンのパンチが空振りした時の、その空を切る音に、当たったら死んでしまう、と正直思った。一勝二敗であった。 先日、日本のテレビでひさしぶりにタイソンを見た。あの頃の顔とまるで違っていた。 それが人間なのだろう。テレビの中のタイソンを見ているうちに、キャッツキルで見たちいさなジムと、残っていたカス・ダマトの庭にある、ハトの居ない鳥小屋がよみがえった。 それが〝恐怖〞でなくとも、私たちは何かを自制せねば生きて行けないのだろう。 映画俳優の方から逢いに来るさ、と言われた時、少年はどんなふうにかがやいていたのだろうShizuka Ijuin9一九五〇年山口県防府市生まれ。八一年、文壇にデビュー。小説に『乳房』『受け月』『機関車先生』『ごろごろ』『羊の目』『少年譜』『星月夜』『お父やんとオジさん』『いねむり先生』『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』など。エッセイに、美術紀行『美の旅人』シリーズ、本連載をまとめた『旅だから出逢えた言葉』などがある。最新刊に『東京クルージング』(角川書店)、累計148万部を突破した大ベストセラー「大人の流儀」シリーズ待望の第七弾『大人の流儀7 さよならの力』がある。

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