長きにわたって銀座のオフィスに勤めている、あるいは3日と空けず〝銀ブラ〞を楽しんでいるという方でも、ひょっとすると気にも留めず、見落としていらっしゃることも多いのではないかと推測するのが、中央通り、銀座2丁目の歩道に立つ「銀座発祥の地」の石碑。そこには「銀座役所趾」の文字も小さく刻まれている。 それが示すままに、「銀座」という地名はここに銀の鋳造所があったことに由来する。時は、慶長17年。西暦では1612年。江戸幕府が開かれて9年後に当たる。徳川家康のお膝元である駿府(静岡)に設けられていた銀座役所が、この年この場所に移された。当時の正式な町名は「新両替町」で、「銀座」というのはあくまで通称だった。その後、200年ほど経って銀座役所は日本橋蛎殻町に移転したが、人々が慣れ親しみ、根付いていた「銀座」という呼称はこの地から離れることはなかった。 銀座が正式な町名となったのは1869年(明治2年)。1丁目から4丁目までが誕生した。当時の道幅は8間ほど。メートルで表せば13〜15メートルだった。明治という文明開化の新時代を迎え、さあこれから新しい首都のシンボルとなる街に育てていこうとした矢先、銀座は2度にわたる大火に見舞われる。とりわけ2度目(1872年)の大火事では、銀座一円がほぼ焼失した。復興を指揮した時の知事・由利公正は、今後の不燃化対策として〝煉瓦〞を取り入れると同時に、大規模な区画整理を行った。中央通りの幅は以前の倍ほどの15間(約27メートル)に拡張された。ちなみに〝横丁〞にあたるマロニエ通り、みゆき通り(それぞれ現在の名称)などは8間のまま。平成の世を迎えた今でも、ベースとしてこのサイズは変わっていない。メートルではなく〝間〞という単位が密やかに息づいていることに、歴史の深みが感じ取れる。 話を一旦、明治時代に戻そう。煉瓦街となった中央通りには、ガス灯が灯り、街路樹として松・楓・桜が植えられた。それらの木々は数年後に柳に植え替えられた。明治中期から大正の中頃までの銀座は、柳の街として美しく佇んでいた。その景観は情感を伴って後年の流行歌の歌詞にも描かれ、実際の銀座を見たことがない遠方の人々にも憧れを募らせていった。 そこからは、災害、復興、戦災、復興が繰り返される。大正末期の関東大震災の後、さらなる区画整理によって〝銀座八丁〞が生まれる。大戦時の東京大空襲からも立ち上がり、1964年(昭和39年)の東京五輪開催や、高度成長期を経て、1968年(昭和43年)に現在の銀座の基本をなす住所区域が生まれた。 それぞれの時代の「東京の顔」として発展してきた銀座。平成に入ってからは、地区計画「銀座ルール」によって、銀座の建物は56メートル(プラス、工作物10メートル)を最高限度とすべしと定められた。歩行者天国にあたる日などに、中央通りの銀座8丁目辺りから眺め渡すこの街の姿は、均整が取れ、品格とインテリジェンスに満ち、無音の旋律が流れているようでもある。それは、この定められた建築物の高さにも起因しているのだろう。 改めて、まず、家康公に感謝の意を示さねばなるまい。そこから、たび重なる苦難に立ち向かった先人たちに余すところなく敬意を表したい。そして、今と、まだ見ぬ未来の、汗をかくことを厭わない人たちに、先んじてエールを送りたい。徳川家康が創り、現代、そして未来へと62GINZA
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