SIGNATURE 2018 1&2月号
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興を取り入れ、俳優の呼吸や間合いに「日常のひとコマ」をリアルに感じさせる。『不完全なふたり』や『ユキとニナ』などの作品で知られる諏訪監督は、日本はもとよりフランスで絶大な人気を誇る。 今回の作品が生まれたきっかけは5年前、ジャン=ピエール・レオーとの出会いだった。 「彼が僕の『不完全なふたり』を気に入ってくれたんです。ヌーヴェルヴァーグの精神を引き継いだ作品だ、と。そしてぜひ一緒に映画をつくりたいと言ってくれた」 ジャン=ピエール・レオーといえば、トリュフォー、ゴダールら巨匠に愛されたヌーヴェルヴァーグの申し子だ。彼に「どんな役をやりたい?」と訊いたところ、答えは「歳をとった役」だった。 「いや、あなたもう十分に歳をとっているでしょ? って思ったけど(笑)。彼はヌーヴェルヴァーグ時代の自分のイメージを大事にしていて、いい意味で何を演じても〝ジャン=ピエール・レオー〞な人。長い俳優生活を送るうちに、実年齢よりもずっと消耗し、傷ついてもいた。彼にとって〝老いた役〞は特別なことなんだ、と感じたんです」 年齢を重ねれば、親が死に、友が死んでいく。いやでも死を意識せざるを得ない状況に誰しもが置かれる。 「僕はこれまで映画のなかで『死』を描いてこなかったんです。理由は怖いから。たださすがに年齢も上がり、漠然と死をイメージするようになってきた。ちょうどジャン=ピエールもアルベルト・セラ監督の『ルイ14世の死』の役作りに苦労していて、会うと僕に『死を演じるのはどうしたらいい?』って相談してきたんですよ」 まさにその状況が、映画の主人公に反映された。だが、死をモチーフにしていてもこの映画は決して暗くはない。むしろ感じるのは舞台となる南仏の陽だまり。そのぬくもりや生命力。そして映画に大きな活力を与えているのが、子どもたちの存在だ。 アマチュア映画を撮ろうとしている子どもたちは、ジャン=ピエール扮する老優に自分たちの映画に出てくれるよう頼む。このモチーフもまた、近年「こども映画教室」で講師を務める監督の経験から生まれた。 「子どもたちのなかにどうやって映画が芽生えるのか。それを見るのがおもしろくて」 劇中、子どもたちがつくる映画は彼らのオリジナルだ。子どもたちがジャン=ピエールにセリフや動きの指示を出すものの、彼がまったく言うことを聞かないシーンに思わず噴き出してしまうが、あれも実際に起こった出来事だった。 「あのときは僕も撮りながら『失敗した!』と落ち込んだんです。でも結果的には一番おもしろいシーンになった」 ジャン=ピエール自身も子どもたちとの即興を楽しんだのだろうか? 「それはね、わからないんです。彼はやっぱり普通の大人と違うんですよ。普通の大人は子どもに〝自分より未熟で、小さなもの〞として接するけど、彼はそうじゃない」 老人と子どもの心の交流――監督をはじめ大人が無意識に想定するストーリーを、ジャン=ピエールは軽々と超えてしまった。 「彼に『子どもたちにリンゴを放ってください』と頼むと、本番でものすごい勢いで投げつけてくる。子どもたちは『このじいさん、気が変になったのか!?』と驚いて逃即すわ のぶひろ|1960年、広島県生まれ。長編2作目の『M/OTHER』(99年)でカンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。『H story』(2001年)ではアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』をリメイク。『不完全なふたり』(05年)でロカルノ国際映画祭審査員特別賞を受賞。オムニバス映画『パリ、ジュテーム』(06年)では唯一の日本人監督として「ヴィクトワール広場」を製作。主演にジュリエット・ビノシュを起用し、その際に出演していたイポリット・ジラルドと共同監督で『ユキとニナ』を09年に発表。定型のシナリオなしで撮影する手法は、ヨーロッパで高く評価されている。東京藝術大学大学院教授。人Nobuhiro SUWA79SignatureInterviewno.げ出しましたよ(笑)。ある意味、ジャン=ピエール自身も子どもであり、彼らは対等なんです。彼は決してやさしく子どもたちを包み込むような存在ではない。でも『わけのわからないもの』に出会った経験は、子どもたちに何かを残したと思います」 これまでの映画では「現実的なもの」を追究してきた。しかしジャン=ピエールという人はそこに収まらない。 「フィクション映画とは『ウソなんだけど、こういう人いるよね』『あるよね』を観客に信じさせようとするものです。でもそこにフィットさせるにはジャン=ピエールの存在感は特殊すぎる。ああいう人は、現実にはいませんから。彼自身が『信じさせる』というフィクションの機能を壊している。そういうことは自分の映画で起きたことがない。だから逆に言うと、なんでもOKになったというか。改めて『自分は映画をつくってるんだ!』という気持ちにもなった」 前作から8年を経たのは、大学学長として多忙を極め、体調を崩したことも理由だ。 「自分ではストレスを感じているつもりはなかったんですけど、ある日突然、体が動かなくなった。鬱の状態ですね。これはもう無理だな、と学長職を退いた。失業手当をもらいにハローワークにも行きましたよ(笑)。そのときはすぐに映画をつくろうとは思わなかったし、できるかどうかわからなかった。でもジャン=ピエールといつか映画を撮るんだ、ということだけは手放さずにいたんです」 南仏ラ・シオタの陽光のなか、子どもたちとジャン=ピエール、そして監督自身に起きたマジックを、ぜひ、目撃してほしい。14
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