SIGNATURE 2018 1&2月号
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ピーテル1世とその妻マイケン・クックが埋葬されているブリュッセル最古の聖堂。教会内に掲げられた追悼碑の絵《聖ペテロに鍵を渡すキリスト》(右写真)はルーベンスによるもの(複製)。碑には、ラテン語で「創造された自然も彼を賞賛する」と銘されている。Place de la Chapelle,1000 Brussels, Belgium開館時間:10:00~16:00*日曜のミサの時間は非公開Église Notre-Dame de la Chapelle, Bruxellesノートルダム・ド・ラ・シャペル聖堂563年、ピーテル1世は、師の娘であるマイケン・クックとの結婚式をノートルダム・ド・ラ・シャペル聖堂で挙げ、そのわずか6年後、同教会に葬られた。ブリュッセルの下町、マロール地区にそびえるこの教会に、「ブリューゲル展」の共同監修者であるセルジオ・ガッディ氏を迎え、ピーテル1世の功績と、以後150年にわたりすぐれた画家を輩出したブリューゲル一族について伺った。 「ピーテル1世の革新性は、彼が若い頃、イタリアを歴訪しているにもかかわらず、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、ルネサンスの巨匠たちの影響を受けなかったことにあるでしょう。ご存じのようにイタリア・ルネサンスとは、教会を中心とした中世的世界観から人間を解放する運動でした。画家たちも人間そのものに焦点を当て、人文主義的な理想の人間像を描きました。しかしピーテル1世は、人々がお酒を飲み、愛し合い、抱き合ってダンスをする、人間の生々しい日常生活に目を向けたのです」 また風景へのアプローチも、イタリア・ルネサンスの画家とは違っていた。 「ルネサンス絵画において、風景はあくまで登場人物の背景でしかありませんでしたが、ピーテル1世は、まさに風景そのものをメインテーマに据えました。そのきっかけは、彼がイタリアを旅行した際に見たアルプスの風景と考えられます。ひたすら平地が続くフランダース地方に生まれ育った当時の人々は、高い山がそびえる起伏に富んだ土地を見る機会がありませんでした。そこで彼は、実際に見て感銘を受けたイタリアの山々を、フランダースの自然の中に合成して、美しい〝架空〞の風景画を生み出したのです」 このピーテル1世が40代前半で亡くなった時、息子のピーテル2世は5歳、ヤン1世はわずか1歳前後であった。しかし当時、細密画家として知られた祖母などに助けられ、彼らはそれぞれ立派な画家に成長する。 「ピーテル2世は、父の作品とほぼ同じテーマで絵を描きました。当時、アントウェルペンなどの大都市では中産階級が成長し、人々は自宅を飾る絵画作品を求めていました。とくにピーテル1世の作品は人気があったため、2世は工房をフル稼働して父の作品を大量にコピーし販売します。それによりピーテル1世の名は、ヨーロッパ中に知れ渡ることとなりました。一方、そのなめらかな筆致から〝ビロードのブリューゲル〞といわれたヤン1世は、当時フランダースを統治した大公アルブレヒト7世の宮廷画家に任命されて活躍します。ルーベンスとの共作でも知られる彼は、17世紀のフランドル絵画で、最も重要な画家のひとりです」 その後、彼の子孫たちも画家となり、〝ブリューゲル〞の名は、いっそうブランド力を増していった。 「ピーテル1世以降、150年にわたって続いたブリューゲル一族の系譜は、フランドル美術史上、極めて価値の高い、まさに〝ダイナスティ(王朝)〞ということができるでしょう」  (木谷)大ブリューゲルここに眠れり140

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