SIGNATURE 2018 1&2月号
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駿河湾から望む富士山 写真・宮澤正明おぎのはま公からはじめて、二十歳で従業員合わせて三人で独立した。そのちいさな商店が今や日本で有数の企業に成長し、海外の提携企業、工場を合わせると従業員三万五千人を越える素晴らしい企業になっている。 その小説を読んで下さった方からの声に、若い主人公が、当時、日本で一番の客船の、それも一等客室に乗り(実は商いの元手を主人公は大胆にも一等客室の運賃に使ってしまうのだが)、日本を海から見て、さまざまなことを学ぶシーンがとても興味深く、愉快であったという感想があった。 このシーンは、私の創作なのだが、私には主人公がきわめて早い段階で、日本の周囲を航海する客船に乗っていたはずだという確信があった。 主人公の名前は、鳥井信治郎。実在した人物で、今や日本中の誰もが企業名を知っているサントリーの創業者である。連載前に、私はさまざまな資料を検討し、当時の様子を知る人たちと逢い取材を重ねた。 その中に主人公のかたわらで長く仕えた、昔で言う番頭、今で言う秘書役の家族から興味ある話を聞いた。 「大将(主人公は自分のことをそう呼ばせていた)は、そらもう忙しい人で、商談でも、洋酒造りでも、ほとんど立ったままで仕事をされる方でしたわ。それに家族思いで、従業員一人一人を自分の家族と思うてはって、少し熱があると、大将自ら薬を持って逢いに来られました。ほんまにやさしい人でした」 休日を取ることがなかった信治郎は、自分の子供たちや親戚の子供たちを、その秘書役に命じて、夏休みになると大阪、兵庫から客船に乗せて上京させ、さまざまな街を見させて見聞をひろげるように命じたと言う。 「ええか、子供たちを客船に乗せて、そこでまず食事の、それも西洋はんのテーブルマナーを覚えさせるんや。それと朝からちゃんと身嗜みをきちんとして大人の前に出ることもや。そうして海から、この日本という国がどんな国土なんかを子供の目でよう見させるんや」 私はこの話を聞いた時、なるほど素晴らしい教育のやり方だと思った。 同時に、客船の中でそのようなことが学べることを明治人の信治郎が知っていたのは、彼自身が客船に乗船し、船旅の日々を経験しているはずだと確信した。 当時、日本を周遊する客船の代表は神戸港から出発し、横浜、荻浜、函館、小樽の港を巡るもので、横浜、函館、小樽ではそれぞれ二日滞在した。そうして来た港に寄りながら帰港する十四日間の旅であった。船室は一等客室で四十三円(現在の約九十万円)で、一等客室に乗っているのは十人中九人が外国人だった。食事はすべて洋食で、各部屋には客室係がついていた。 私が小説の中で紹介したのは〝三池丸〞という客船で、三三五六トンは単船で復路航海ができる当時最大の客船だった。船長は外国人船長だった。と言うのは客船も貨物船も海難や事故の折、多額の保険金を支払わねばならなかった。その保険会社がヨーロッパの保険会社で、経験豊かで信頼できる船長の下でなければ航海を認めなかったということがあったからだ。 客船の中にはレストランは勿論のこと、サロン、テ
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