SIGNATURE 2018 4月号
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こモ ロッコで暮らし始め、モロッコ人の女性たちと付き合うようになって最初に覚えた言葉は、「スバル」。女性同士の会話に頻繁に登場する、「我慢」という意味のアラビア語だ。 彼女たちの毎日は忙しい。食事の支度には数時間かける。パンも小麦粉から捏ねて自宅で焼くのが普通。子どもの数は多く、三世代同居も一般的。田舎では冠婚葬祭を自宅で行うこともいまだに一般的で、結婚式には鶏の丸焼きと牛肉のタジンがメインのモロッコ料理フルコースを100人前、近所の主婦たちが協力しあって準備する。 最近では外で働く女性も増えてきたけれど、毎日の「美味しい手料理」は欠かせないし、そもそも「出来合いのおかず」は存在しない。厨房に入らない男性がまだまだ一般的なので、睡眠時間を削って料理の下ごしらえをすることに。とにかく、20代から30代のモロッコ女性たちには、ぼーっとする時間はないに等しい。そんな、多忙で我慢強い彼女たちの日々のストレス解消の場は、週に1回の「ハマム」通いだ。 ハマムとは、古代ローマやオスマントルコに起源を持つ公共の蒸し風呂のこと。雨が少なく、乾燥しているモロッコでは、豊かな水を持つことが街の豊かさの象徴であったため、街が建設されると、モスク、学校、市場とともに、たくさんの泉とハマムが造られ、美しい内装が施された。 ハマムを温めるためには、オリーブの薪が使われ、余熱は料理に、灰は肥料として再利用された。現代では、ガスを使ったハマムも増えているが、モロッコ人は薪ハマムと新しいハマムでは体の温まり方が違うと言い、伝統的な薪ハマムが人気だ。ハマムの中は3部屋に分かれていて、一番手前の部屋は脱衣室、2番目がぬるめの蒸し風呂、一番奥がかなり熱めの蒸し風呂になっていて、行ったり来たりしながら過ごす。 ハマムには、大家族の女性たちがそろって出かける。赤ちゃんからおばあさんまで、多い時は10人ほどで家を開けると、少なくとも3、4時間は帰ってこない。最近ではずいぶん変わってきたとはいえ、モロッコの伝統的な価値観では、女性が用もなく出歩くことはまだまだ難しい。カフェやレストランに女性同士で入ることも、よい顔をされないことが多い。そんな中、週に1度のハマムは、女性たちが堂々と出かけられる数少ないチャンス。体を隅々まで磨きあげるだけではなく、女同士、常連客同士、心ゆくまで話をして、〝心の垢〞をも落とす貴重な時間だ。ハマムには何曜日に出かけてもよいけれど、モロッコの国教であるイスラム教の聖日である金曜日や、その前日に身を清めたい、という人も多く、混み合う。 ハマムでは、もちろん市販のシャンプーやボディソープも使われるけれど、モロッコ伝統のナチュラルコスメも好まれる。ナチュラルコスメのレシピは、料理のレシピと同じように母から娘へと伝えられる。たとえば、モロッコのクレイである「ガスール」を溶かす時に、オレンジフラワーウォーターを加えるか、ローズウォーターを加えるか。ハチミツを加えるか、アルガンオイルを用される天然染料のヘナは、その厄災から身を守るお守りとして使われるため、女性が最も美しくなる結婚式の前には、ハマムで「ヘナの夜」というパーティが行われ、花嫁の手足に美しいヘナタトゥーが施される。 「結婚」とハマムの関係は深い。モロッコでは、現代でも結婚は家と家のものであるという意識が強いので、恋愛結婚は少ない。結婚相手は、親戚や近たらすか、オリーブオイルを使うか。体によい、肌によいなど、表面的に綺麗になるというだけではなく、ナチュラルコスメにはホワイトマジック的な効果があるとも信じられている。モロッコをはじめとした地中海諸国では、美しいものやよいものを見つめる視線に「妬み」や「嫉み」が含まれており、その視線が厄災をもたらすと信じられている。モロッコでよく使そねねた所の幼馴染みの中から選ばれることが多い。適齢期の男性の母親がハマムで若い女性を見つける、母親同士で話し合って決める。そして、将来のお嫁さんは、結婚後のあれこれを、やはりハマムで教えられる。 また、結婚にあたってのインフォーマルな根回しや詳細の打ち合わせが行われるのも、ハマムだ。モロッコでは、新郎から新婦の家族にお金を贈る習慣があるが、その金額をいくらにするか、新居の家具は誰が何を用意するか、別居か同居か、結婚式の日程は、お色直しは何回するか……。どこの国でも結婚となると細かい問題が山ほど出てくるけれど、詳細は女性同士で話し合われた上で、男性同士のフォーマルな話し合いや結婚契約書の作成が行われるのだ。 ハマムには、幅広い年齢の女性たちが集まるので、おばあさんが現役世代にあれこれとアドバイスし、これからの世代は様々なことを聞いて学習するという伝統の継承が行われる。もちろん男性もハマムに行くけれど、男性のハマム滞在時間は長くて1時間。ハマムは女性の世界なのだ。 最近では、ヨーロッパのスパとモロッコの伝統を合わせたスタイルの高級ハマムがマラケシュなどの観光地に数多くオープンしており、人気だ。内装が美しい『フォーシーズンズリゾートマラケシュ』と、アラブのお姫様気分が味わえる『ラ・マムーニア』が特にオススメだ。34
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