SIGNATURE 2018年 6月号
4/72

――あれがこの港の象徴なのだ。 と思った。 港の象徴とは、船からもきちんとたしかめられるものだ。さらに言えば、航海する人々にとって道標となるものである。 古代から栄えた港には必ずこの象徴があった。或るものは丘や岬であったり、或るものは塔であったり、船乗りがその象徴を目にして、やっと着いたぞ、とか、ようやく通過するぞと思えるものだ。 二度目は、一人の侍の墓がマルセイユにあるというので探しに行った。江戸期の終りに、将軍の命で、何藩かで侍たちをオランダに行かせ軍艦を建造させたことがあり、その侍の中の一人が現地の女性と恋に落ち、軍艦造りから脱走し、恋路の道を選んだという小説を書いてみようと思っていた。それはちいさな墓で、墓前に立つとどこか哀切を覚えた。 三度目は、ジネディーヌ・ジダンの取材で、彼が幼少期を過ごしたアフリカ系移民が多く暮らす地区を訪ねた。 サッカーのジダンを選んだのは、多くのヨーロッパのスター選手の顔を見ていて、この選手には何かあると感じたからだ。またジダンはユベントスに所属していたが、突然、レアル・マドリードに移籍した。当時の金額で四千六百万ポンド(約六十六億円)という途方もない移籍金が話題になった。 ジダンの両親はフランス領アルジェリアに住む少数民族のベルベル人であった。両親はアルジェリア独立戦争が起きる前の一九五三年にフランス、パリに移住し、その後、マルセイユに住み、そこでジダンは誕生した。兄が五人、姉が一人の七人兄弟の末っ子だった。ジダンはボールを追ったという。 ジダンは子供の時からサッカーの才能があったらしいが、彼を今日のような世界的なスターにしたのは、母親の愛情であった。そのことは以前、この連載で〝美しい洗濯物〞というタイトルで書いた。 ジダンの母は、最初、十四歳の息子をカンヌのクラブチームへ行かせることに反対だった。一週間、ジダンはカンヌのトレーニングに加わった。その時、ジダン少年が宿泊したのが、クラブの後援者のエリノー家で、厳格な女性のエリノー夫人はジダンの衣服を洗濯し、ジダンをマルセイユに帰した。母は、丁寧に折りたたんだ洗濯物を見て、息子を預かってもらおうと決心した。八日間の予定が六年間になり、そこでジダンは成長し、スターへの階段を上ることになった。のちになって、ジダンは兄弟から、毎日、母がカンヌに続くマルセイユの海にむかって祈っていたことを報された。     私の母は、時折散歩がてら少年の私を連れて海を見に行った。母は黙って夕陽が沈む水平線を眺めていた。子供ごころに母の背中がどこか物悲しく映ったのを覚えている。 北アフリカ移民が多く住む地区の隣りに、そこだけが別の世界のように映るサッカー場があった。聞けば、そのグラウンドで少年の旅先でこころに残った  言葉一一三回マルセイユ8ノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院の黄金の聖母子像。MarseilleNumber 113Marseille

元のページ  ../index.html#4

このブックを見る