――何を見ているんだろう? 後年、私は母が終戦直後に離れ離れになった、たった一人の弟の安否を思って海を見ていたことを知り、一冊の小説を書いた。 私の作品には海を見つめる女性が多く登場すると、編集者から言われたことがあった。 気付かなかったが、それは母の姿が私の記憶の中で鮮烈に残っていたからかもしれない。 ジダンの取材を終えた日の夕暮れ、私は港をそぞろ歩いた。かがやく地中海を眺めている人が大勢いた。――ジダンの母親もここに来て、カンヌに続く海を眺めていたのだろうか……。 そんな想像をした時、自分の母の姿がよみがえった。 人はさまざまな思いを抱いて海を眺めているのではと思った。9朝のマルセイユ旧港。この場所から右手の、マルセイユ市街を眼下に望む丘の上に、ノートルダム寺院が立つ。一九五〇年山口県防府市生まれ。八一年、文壇にデビュー。小説に『乳房』『受け月』『機関車先生』『ごろごろ』『羊の目』『少年譜』『星月夜』『お父やんとオジさん』『いねむり先生』など。エッセイに美術紀行『美の旅人』シリーズ、本連載をまとめた『旅だから出逢えた言葉』(小学館)などがある。新刊に『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(上下巻・集英社)、『文字に美はありや』(文藝春秋)。最新刊に、累計百七十万部を突破した大ベストセラー「大人の流儀」シリーズから珠玉のエッセイを抜粋した『いろいろあった人へ』(講談社)がある。Shizuka Ijuin伊集院 静
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