「おじいさんと同じものが作れますか?」。ある日、窯を訪れた水戸岡氏は中村清吾さんに訊ねた。「できます」と答えて以降、彼の〝産みの苦しみ〞は続くことになる。最初はコーヒーカップをという話で気楽に訪問を受けたのだが、結局サイズ違いのお皿やティーカップ、スープカップまで、8か月で600以上の器を作って納めた。 「当時は個展の予定もあり、その制作もこなしながら、ヒーヒー悲鳴をあげていました。ろくろで作るので一個一個、時間と手間がかかります。形も合わせながらブレがないようにするのはたいへんな作業でした。同じものを大量に作るのも初めての経験でしたが、その機会を与えられたことは勉強になりました。同じ器だけど決して同一ではない。一つひとつを大事に見る感覚と、それぞれの微妙な差異を感じ取れるようになりました。職人としてのコツを自分の中に取り込めた気がします」と清吾さんは当時の様子を振り返る。 有田の『高麗庵清六窯』は、〝ろくろの神様〞と称された中村清六さんが晩年になって起こした窯だ。人間国宝の指定を断ったという気骨の人でもある。孫の清吾さんは幼い頃から祖父の手伝いをしていたが、ネクタイを締めたサラリーマンに憧れていた時期もあった。彼は九州大学経済学部を卒業している。そのまま就職しても、エリートコースが約束されていたはずなのだ。それでも、職人になる道を選んだのは何ゆえだろう。 「祖父が楽しそうに仕事をしていたんです。80歳を過ぎても、祖母に『まだ帰ってこない』と始終こぼされていて。僕も手伝いながら、『今日はよくできた』とニコニコしている祖父を見ていました。有田も機械化が進んで、ろくろで作る意味はないかなと思った時期もありましたが、『手のよさってあるな、民族や歴史によっても違うし、焼き物の世界は奥が深いな』と思い始め、自分も携わろうと決意しました」 三姉妹の長女に生まれ、後継者として期待されながら厳しい父の下でずっと働いていた清吾さんの母・恵美子さんは、また少し違う思いを抱いていたようだ。 「清吾が父・清六に、『おじいちゃんの後を継がせてもらってもいいでしょうか?』と伝えた後に、父は私に『そがいしてくれる気があるかねえ』と素っ気なくも、うれしそうに言いました。でも私は『かわいそか(かわいそうだな)』と思ったんですよ」 恵美子さんは続ける。「父は、後を継がせると決めてからは、『お前は清吾に関しては一切口出ししてくれるな』と厳しい口調で言いました。私は直立不動で『はい』と答えるしかなかったんですよ。ですから、清吾のすることは隠れて見ていました。それは今も同じです」。 血を分けた、父と、娘と、孫。有田焼の陶工として厳しい修業を続けてきた三者にしかわからない世界を垣間見た気がした。この地のある名人は、〝三代で一人前〞という言葉を残している。言葉では伝えられないもの、手でしか伝わらないもの、背中でしか語れないもの……。『清六窯』のDNAはこれからも引き継がれていくだろう。 34*ダイナースクラブ特別ツアーでは『高麗庵 清六窯』を訪れます。詳細は38ページをご覧ください。高麗庵 清六窯佐賀県西松浦郡有田町南原甲1101電話 0955-42-2432文・髙杉公秀写真・永田忠彦なかむら せいご|1975年、有田を代表する女性陶芸作家の中村恵美子さんの長男として生まれる。九州大学卒業後、「ろくろの神様」と称された祖父、 故・中村清六氏の下『高麗庵 清六窯』にて修業を始める。従来の白磁の概念を越え、知的でかつ躍動感のあるシャープな造形の器を生み出す、有田で最も有望な若手陶芸作家の一人。Seigo NAKAMURACRUISE TRAIN “SEVEN STARS IN KYUSHU”陶人中村清吾人と人をつなぐうつわ
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