SIGNATURE 2018 10月号
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(Taikoo PlaceNot?  そ   れは1年前の6月のある夜||香港島の東、新興ビジネス街・太古にある『太古坊ティスツリー(ArtisTreeまっていた。スーツ姿のビジネスマン、Tシャツ姿の若者、タキシードを着込んだ初老の紳士、ドレスアップした女性なども見られた。そんな人混みの中に満面の笑みを湛えた一人の日本女性を見ることができた。長谷川留美子その人だ。会場に集まった聴衆は、オペラハウスもなく、オペラ〝不毛の地〞と呼ばれる香港で、香港のアートシーンに新たな一ページを刻むことになるオペラの目撃者になろうとしていた。主宰するのは長谷川自らが立ち上げたNPO法人『MORETHANMUSICAL』。上演時間は90分(通常はおよそ3時間)。観客席と舞台とを区切ることのない、女優、男優らの)』。その中のアートスペース『アー)』には、多くの人が集タイクー息遣いが聞こえるほどに観客と接近した画期的なオペラ「椿姫」が始まった。観客は演者と近いがゆえに、その動きに同化し、その歌声にシンクロし、やがて空間は一体化していく。いつしか長谷川の耳に観客のすすり泣く声が聞こえてきた。周囲に目を凝らせば、涙を溜めて舞台を食い入るように見つめる人が何人もいた。長谷川もこみ上げるものを抑えることはできなかった。 長谷川のキャリアは華麗だ。米大手証券会社『ゴールドマン・サックス』日本法人で19年間働き、日本人女性として初めてのパートナー(共同経営者)ともなった。そんな長谷川がオペラと出合うのは、何か趣味をつくろうと始めた声楽だった。そして、ニューヨークでプッチーニの《ラ・ボエーム》を観る機会を得る。長谷川は、スタンディングオベーションの中、涙を流している自分に気づく。かくも純度の高い芸術が人の心を揺さぶり、豊かにすることを知る。 ビジネス界で成功した彼女が、一線から身を引いたのは、香港に転勤後、引退した2012年。香港でオペラの上演を行っている『オペラ香港』の理事になるものの、衰退するオペラへの危惧は強まるばかりだった。観客はいつも同じ面々。寄付に頼るような運営も気に入らなかった。これではオペラは絶える。証券会社時代、長谷川は困難な案件を前にすぐに諦める社員らを「Why (なぜ諦めるの?)」と鼓舞し続けた。2016年、自ら資金を出し、新たなオペラを目指す『MORE THAN MUSICAL』を立ち上げる。〝オペラ〞につきまとう、長い、退屈、理解できない……、といった呪縛を解くため、あえてオペラを超え、ミュージカルに近づくという思いを込めた命名だった。新たなコンセプト、しかもそれをアジアの香港でやる。すべてが冒険だった。それでも、すぐに得難い理解者、舞台監督2017年6月、香港の『ArtisTree』で上演された、モアザンミュージカルによるヴェルディ《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》初演。ヴィオレッタ役の許 (ソプラノ)。《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》再演(前ページ舞台写真とも)。14

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