SIGNATURE 2018 10月号
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と車窓に映る風景を見ている。車でも同じだ。中国の重慶から船で〝三峡下り〞をした時も、切り立った崖や村々を眺めていた。復する折も、さまざまな風景を見るのが楽しみのひとつだ。その中に、何かのグラウンドを、球場を見つけて高校生の練習風景を見物する(わずかな時間だが)。がむくのが、ほどなく静岡駅に近づくという数分前に、海側に野球場の照明が見える一瞬だ。 「あっ、草薙球場だ」電車に乗った時、私は窓側の座席に座り、ずっ少年の頃から変わらない行動だ。飛行機でも、自宅のある仙台と東京の上野を東北新幹線で往東海道新幹線を東京から西へむかう時も必ず目と思わず胸の中で声を出してしまう。古い野球ファンなら草薙球場と聞けば、一人の伝説の投手の名前を思い出される方が多いだろう。私も同じである。沢村栄治投手だ。戦前の、昭和九年(一九三四年)十一月二十日、この草薙球場で日米野球の第十戦が行なわれた。この時、沢村は十七歳の若さだった。日本代表はそこまで八戦八敗だった。大半がワンサイドゲームで大人と子供の試合と評されていた。それもそのはずで、その時で二度目のメジャーリーグの日本遠征は、招聘した正力松太郎の尽力で、当時の最強のチームが結成されていた。その筆頭が〝野球の神様〞と呼ばれたベーブ・ルースだった。そして三冠王だったルー・ゲーリック、ジミー・フォックス、チャーリー・ゲーリンジャー……など、アメリカ本国でも、ドリームチームが日本遠征へ行くと話題になっていた。を払ってドリームチームを招いたのには理由があった。まだ学生野球、クラブチーム野球しかなかった日本でプロ野球チームを作り、プロの野球がいかに素晴らしいかを日本人にアピールしたかったからであった。ところが日本代表チームの力のなさに正力はこころを痛めていた。そこで第四戦に投げて大敗したが、もっとも若い沢村栄治に再度期待をした。第四戦はコントロールが悪く、ストライクを取りに行ったボールを三本もホームランされた。た。駿河湾からの風が沢村の背中を押した。ベー正力松太郎が、当時としては破格の招聘の費用沢村はその折の投球を反省し、マウンドに立っ写真・太田真三やはりマウンドに立ちたいな……文・伊集院静Text by Shizuka IJUINPhotographs by Shinzo OTA           7

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