シアトルかういちやブ・ルース、ルー・ゲーリックをはじめとする大打者を次から次に空振りさせ、六回まで無失点の好投を見せた。ルースも、ゲーリックも沢村のコントロールとスピードボールに驚いたという。今も残る現役時代の沢村の投球のモノクロフィルムのフォームから解析すると、沢村のスピードは百六十キロを超えていたと言われる。ックが沢村からソロホームランを放った。試合は0対1で日本が敗れたが、ドリームチームを率いて来たメジャーのコミッショナーが正力に「エイジ・サワムラをアメリカに連れて帰りたい」と申し出たほどだった。った。それ以上に正力にとって、日本でもプロ野球は成功するはずだと確信した。に目がむいてしまうのには、もうひとつ理由があった。がよみがえることがある。見た古いホテルと、隣りのホテルの地下にあった銭湯の湯屋である。名は『橋立湯』である。||アメリカ、シアトルに銭湯が?アトルにはすでに二千名ほどの日本人移民がいた。七回、日本チームに敗れては大変だと、ゲーリこの試合は日本は勿論、アメリカでも評判にな私がそこを電車が通過する度に、野球場の照明草薙球場の姿が消えると、私の脳裡に或る風景それはアメリカ西海岸、シアトルの街の一角でホテルの名前は『NPHOTEL』。銭湯の店そう思われるかもしれないが、明治十六年にシ明治二十九年には日本郵船が航路を開設し、グ「舎路港の一夜」)と書いている。すでに日本語学校、レート・ノーザン鉄道の開発のため日本人移民労働者が入植した。治三十六年に作家、永井荷風が訪れた折の短編の一節に「嘗て船中で聞いた話の其の通り、豆腐屋、汁粉屋、寿司屋、蕎麦屋、何から何まで、日本の町を見ると少しも変つた事の無い有様に、少時は呆れてきよろ〳〵為るばかり」(『あめりか物語』余篇教会、食料品店、ホテル、レストラン、そして銭湯までがあったのである。ルと湯場につながるのかと言うと、第二回のメジャーからのドリームチームの招聘で、〝日本にもプロ野球は普及する〞と確信した正力は、次から次に好選手を引き抜き、日本で最初の職業野球のチームの編成にかかった。すでに第一号の契約選手に三原脩。早稲田大学のナンバー1選手だった。第二号が法政大学の苅田久徳。慶應大学の水原茂。スタルヒン……と日本プロ野球で後に大活躍する選手が集められ、アメリカ遠征に臨むのである。球場で二週間の練習をし、二月十四日に秩父丸に乗船し横浜港からシアトルにむかった。総勢十八人の遠征チームだった。アトルでの選手の部屋割りである。沢村、スタルヒン、水原茂の名前が見える。としてメジャーチームのマイナークラスのチームと戦い七十五勝三十三敗一引き分けの好成績で七明治二十年代には日本人町が生まれていた。明ではなぜ草薙球場、沢村栄治がシアトルのホテ日米野球の翌年、結成チームは年明けから草薙掲載の写真(第二次アメリカ遠征時)にあるのはシチームは百二十八日間一〇九試合をこなし、主かつせんちうおさむとほありさましばしNumber 116Seattle すそ 8戦前、大日本東京野球倶楽部(後の巨人軍)がアメリカ遠征で滞在した『NPホテル』。/隣接する『パナマ・ホテル』地下に残る銭湯『橋立湯』。
元のページ ../index.html#4