人々がとてもやさしそうだと気に入っていた。夕食を摂ってホテルへむかう時、第二次大戦の折、ゲットーのあった場所の近くを車が通り、そのことをコーディネーターの女性から説明された。私は少し立ち寄って欲しいと彼女に言い、車はUターンをしてゲットーの近くに行った。 「車を降りて、少し見て回りますか?」 車窓から眺めると、少し淋しい場所で暗がりがひろがっていた。 「いや、大丈夫です。ゆっくり走ってもらえばそれでいいんです」 私が壁の続く光景を見ていると、そこに幼い少女と少年が手をつないで歩いている姿が目に留まった。時間はすでに遅かった。 その時、少女が立ち止まり、夜の空を指さした。すると少年が仰ぎ見て同じように夜空を指さした。私は窓を開け、首を出して夜空を見たが、何かが飛んでいるわけでもなく、星も、月も出ていない暗い空があるだけだった。 アウシュヴィッツの『アウシュヴィッツナウ博物館』では日本人でただ一人案内人をしていた中谷剛さんという知己を得て、充実した旅だった。 五年程前、私は或る月刊誌に、書についての連載をはじめた。書を特別知っているわけではない私が書についての小文を連載したのは中国の書家の王羲之の作品を見たのがきっかけだった。それ以前、京都派の哲学者、西田幾多郎の晩年の書を見ていた。〝白砂青松〞と書かれた文字のシンプルな印象に感動していた。 一年の予定の連載が二年を過ぎ、連載はようやく江戸期に入り、松尾芭蕉と与謝蕪村の書を並べて、俳諧師の書がいかなるものかを書いてみることになった。おうぎのわき 小文の中に、当然、二人の俳人の作品を挙げなくてはならなかった。ご存知のとおり芭蕉は〝俳聖〞ビルケとまで呼ばれる俳句という世界の峰のさらに峰に座する人である。その生涯を辿ってみても、劇的なものが数多くあり、文章で挑むには恰好の人であるが、同時に難敵でもある。私は俳句をそれほど学んでいないから、芭蕉については深く踏み込まないと決めていた。一方、与謝蕪村はいくつかの句を知っていた。『春の海終日のたり〳〵哉』『鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉』などである。 ところが或る句を読んで、私はその句に目が留まり、しばらく動けずにいた。 それが名句なのかどうかは私の力ではわからなかったが、私には江戸期に生まれて俳人、画人としてさまざまな創作をした人の作品が、なぜか中世の西洋(欧州でもいいが)世界を写しとったものに思えてしかたなかった。 月天心貧しき町を通りけり――なぜそう感じるのだろうか……。 私はその句を書き写し、仕事場の壁に貼った。数日後の夜半、仕事の休憩時に一人庭に出た。秋の長雨で夜空はどんよりと暗かった。――こんな夜空をどこかで見た気がする。 その瞬間、夜のクラクフの街で、車窓から見た少女と少年の姿がよみがえった。 私はすぐに仕事場に戻り、壁に貼った蕪村の句を見た。――そうか、あの夜の幼い二人の姿がずっと私の中に残り続けていたのだ。少女と少年が貧しいかどうかは知らぬが、あの時、二人の天上に月が出ていたひねもすかなとばどの旅先でこころに残った 言葉一一七回クラクフ し =8KrakówKraków, PolandNumber 117
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