やはり恋愛小説は無理かも知れない 今年の春先から、二ヶ月に一度、国内を一週間程度、旅をしはじめた。 数年前から執筆のスケジュールを変更した。要は単純に量を増やしただけのことだが、それにより、海外旅行での長い時間を取れなくなった。まあこれもいたしかたあるまい、と日々仕事に追われていたが、体調が少しおかしくなった。別にどこか悪いわけではない。身体のためとやっていることはゴルフと夜の繁華街をなるたけたくさん歩くことくらいだ。 何かが足りない。何だろうか、と思っていると、家人から、働き過ぎですよ、小旅行にでも出かけてみてはどうですか、と言われ、いや海外は無理だ、と応えると、国内でもいいじゃありませんか、と提案され、相手の顔を見返して、ナルホドと思った。 時間はアル、ナシではなくてツクルものである。さっさと半年分のスケジュールをおさえた。何年か先に執筆するかもしれない小説の舞台、テーマに触れられる土地をまず前提にした。 最初は山口の宇部に出かけた。基本は一人旅である。海辺を歩いたり、山間に入ったり、街は半日、自転車で回った。漁港、琴崎八幡宮、炭鉱跡、ペリカンのいた幼稚園と公園、少し足を延ばして、昔、高校生に野球を教えた高校を覗いたりした。 こういう時に、書くべき小説のことを考えるか? いっさい考えない。何をしているのか? おう、この漁港、ちいさいがなかなかいいじゃないか。これはまたずいぶん年季の入った老船だな。どんな漁師が乗っているんだろうか。ほう、日本一お守りの種類が多い神社なのか。これほどの音楽堂を寄進した人物がいるのか。山田洋次監督も高校時やまあい代、外からこの音楽堂を覗いていたって? 夜はふらりと飯屋に入り、独酌。気楽でイイ。 静岡を訪ねたのは六月下旬だった。 ひょんなことから小説の依頼があり、物語の舞台を静岡とスペインのバルセロナに設定した。バルセロナは何度も訪れているが、静岡は電車で通るだけで四十年近く、ゆっくりとは訪ねていなかった。 四十年振りで駅に降り立つ。歩きはじめると街の変わりように少し驚いた。それでも歩きはじめる背後から吹いて来る駿河湾からの海風や、遠くに見える南アルプスの山影に、遠い日のことがよみがえった。 静岡という街は、私にとっては幸運をくれる街だと勝手に思っている。仕事に運、不運を持ち込まな7 文・伊集院静Text by Shizuka IJUIN
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