SIGNATURE 2018 12月号
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県内では大ヒットであった。 三年の間キャンペーンをして、私は広告代理店を退社したこともあって静岡を離れた。最後の午後、日本平へ行き、海を見た。またいつか来よう……。入り、銚子口の滝を目指した。なぜ滝かと申さば、今回の小説ではぜひ滝を背景にしたかった。九年振りの恋愛小説ということもあり、何か象徴する風景を探していた。日本で滝、スペインで古い橋を探すことになった。 滝は太宰が『魚服記』で使い、車谷長吉もまことに風情ある登場のさせ方をしている。特別に滝が好きなわけではないが、少年時代に中国山地の奥にある滝で一日泳いだことがあり、それが家族の写真のアルバムに今も残っていた。滝マニアという人たちがいるのも聞いていたが、静岡を舞台にしようと決めた時、静岡にも滝が多いと知り、安堵した。 山中に入り、滝への降り口に車が止まると、先日の台風で滝へ続く沢道が被害に遭い、入山禁止となっていた。あれまあ、と引き返した。数日後、今度は身延線に乗り、富士宮から山梨方面に行き、白糸の滝へむかった。こちらは天然記念物にも指定されており、よもや入れぬことはないと思った。ところがこの日は編集長が一緒で、何の行き違いか、彼が白糸の滝までの所要時間を見誤っていて、滝の入口に着いた時彼は、すぐに引き返さねば或る文学賞の選考会に間に合わなくなった。入口で音止の滝を見て、あれが白糸の滝だと言われた場所に白いソウメンのようなものが上から落ちているのを確認して引き上げた。何をしに来たのか、よくわからなかった。 私はどの取材でもカメラも録音テープも持って行かない。自分の目がシャッターであり、耳がテープだと決めている。生半可に資料、写真、音声に頼ると、おとどめ創作の幅が狭くなる。編集長を富士駅に送り、一人で静岡に戻り、夜に馴染みになったバーへ行くと、ママから私が昔書いた小説をカウンターに出された。 「またこんな恋愛小説を読みたいんですが」 「恋愛小説はもっと上手い作家がいます」 そう言ってから、おかしなめぐり合わせだと思った。 夜、宿に帰り白糸の滝や見ることができなかった銚子口の滝はどんななのかと想像した。そうしてバルセロナの風景をたどり、いろいろと思ったが、そこに肝心の男と女の姿があらわれない。無意識に言葉が出た。――恋愛小説は無理かもしれない。 それでも今夏汗まみれになり、大半を書き上げた。まだクライマックスには着かないが、しばらく滝の夢を見る日が続いている。旅先でこころに残った  言葉一一八回静岡9一九五〇年山口県防府市生まれ。八一年、文壇にデビュー。小説に『乳房』『受け月』『機関車先生』『ごろごろ』『羊の目』『少年譜』『星月夜』『お父やんとオジさん』『いねむり先生』など。エッセイに美術紀行『美の旅人』シリーズ、本連載をまとめた『旅だから出逢えた言葉』(小学館)などがある。新刊に『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(上下巻・集英社)、『文字に美はありや』(文藝春秋)。新刊に、累計百七十万部を突破した大ベストセラー「大人の流儀」シリーズから珠玉のエッセイを抜粋した『いろいろあった人へ』(講談社)、『日傘を差す女』(文藝春秋)がある。  初日は由比まで行き、そこからタクシーで山中にShizuka IjuinShizuoka伊集院 静

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