SIGNATURE 2019 1&2月号
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ンはライン川左岸にある古代ローマ以来の歴史をもつ古い都市で、人口は30万余。第二次世界大戦後ドイツが東西2つの国家に分割されていた51年間、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の首都でもあった。ドイツ再統一の後は、ベルリンと首都機能を分かち合っている大学都市でもあり、現在は3万人以上の学生が勉学に勤しんでいる。 この古都に250年前、後世の音楽に圧倒的な影響を与えた音楽史上の巨人ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827年)は生まれた。生誕の家は旧市街の北にあるボンガッセという狭い小路にある。家は一度取り壊しの危機に瀕したがボンの有志が買い取り、記念館『ベートーヴェン・ハウス』となった。周囲も順次買い取られ、現在はオーディオルームや小さな演奏会用のホールまで備えた文化施設になっている。ベートーヴェンに関する展示品は充実している。 今回私は、まるまる一日この展示品の調査やオーディオによる「音の解説」を聞くことに費やしたが、ベートーヴェンへの理解が急速に深まるにつれ、音楽家の壮絶な生きざまに重圧を感じるほどであった。しかしながら、もしあなたがベートーヴェン愛好家なら、あえてこの記念館を訪れ、時間を過ごすことをおすすめする。遺品や肖像画、地図などをじっくり見学し、ガイドの解説をお聞きになれば、偉大な楽聖の全体像をつかむことができるだろう。 私はこの記念館で、今回2度激しい衝撃を受けた。2度ともオーディオ装置によるベートーヴェン自身の追体験だった。彼が29歳あたりから音楽家にとって致命的ともいえる難聴に襲われ、32歳で有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書くまで追い詰められたエピソードは広く知られているが、その「難聴がどのように進行したのか」を聴覚で体感することができるのである。 ヘッドフォンを耳に当てて年代順にキーを押していく。すると鮮明に聞こえていたメロディが、次第に弱まり、ついにはいくばくかの雑音でしかなくなる。音楽家にとって、これはじわじわ責められる拷問に等しかっただろう。ベートーヴェンは何を支えにして、この重圧に耐えたのだろうか。彼は「私は運命の首根っこをつかんで離さない」という言葉を残しているが、はたしてその決心だけで生涯の責め苦を乗り越えられる意志が持てるものだろうか。 もう一つはグループを案内していたガイドの説明を何げなく聞いていたときだった。ベートーヴェンの肖像画や彼が最後に使用したピアノフォルテ(グランドピアノ)が展示してある3階の部屋で、ガイドはリモコンを操作して音を出した。ざわざわと木立が風に揺れるような音が強く弱く聞こえた。「ベートーヴェン(*1)(*1)1802年10月6日、ウィーン北部の村から二人の弟たちに宛てた手紙。日毎に悪化する難聴による絶望と、芸術家としての運命を全うする願望が書かれている。の作品です。なんだと思いますか?」とガイドは見学者に尋ねた。見学者は口々にピアノ曲や弦楽曲、交響曲などの題名を言った。ガイドは微笑みながらリモコンを操作した。次の瞬間、第九交響曲のクライマックス「歓喜に寄す」の合唱が力強く響き渡った。全身に電流が走り、総毛立つのを感じた。この力強い、人々に勇気と感動と希望をもたらすメロディが、初演のとき指揮者の側に立っていたベートーヴェンの耳には、木立のざわめきのようにしか聞こえていなかったのである。しかしながら彼の頭の中では、堂々と歌い上げられていく合唱が鳴り響いていた。この矛盾に耐えられる神経は、とても人間業とは思えない。 1824年、ウィーンでの初演の演奏が終わるやいなや観客は総立ちになり、熱狂的な喝采を送ったが、それもベートーヴェンには聞こえなかった。メゾソプラノの歌手が見かねて手を添え、観客のほうに振り向かせた。それで彼は初めて第九交響曲が圧倒的に迎えられ、成功を収めたことを理解したというエピソードもまたよく知られている。 重い疲れが残ったが、ベートーヴェン・ハウスでの貴重な体験だった。いそ左から:ベートーヴェン・ハウスの中核をなすボンガッセ20のベートーヴェンの生家。/生家正面の壁のプレート。/館内にはメガネや補聴器、ステッキなどベートーヴェン生前の身の回りの品や、ヴィオラやピアノなどの遺品、直筆の手紙や楽譜、デスマスクや胸像などが展示されている。33Special FeatureBonn: On Home Ground with Young Beethovenベートーヴェン・ハウスBeethoven-Haus, BonnBonngasse 18-26, 53111 Bonn, GermanyTel: +49-228-98175 25 www.beethoven.deボ

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