ートーヴェンの父親は宮廷テノール歌手のヨハン、母親は宮廷料理人の娘だったマリア・マグダレナ。ベートーヴェンと同じ名前の祖父・ルートヴィヒは宮廷楽長だったから、街の名士として地位、名誉、経済力に恵まれていた。祖父の存在は一家にとって大きなものであっただろう。祖父は当初結婚に反対したが、やがて幼いベートーヴェンの手を引いて街を散歩する姿が見かけられるようになった。 推測だが、祖父は幼い孫が音楽の才能に恵まれていることを早くから見抜いていたのではなかろうか。「ルイや、音楽とはな」と、散歩をしながら語りかけていたのだろう。そんな祖父をベートーヴェンは生涯尊敬し、肖像画を自室の部屋に飾り、ウィーンに住むようになってからはボンから取り寄せている。その祖父がベートーヴェン3歳のとき急逝したことで、一家の生活は暗転する。 父・ヨハンはひそかに祖父の後継者として宮廷楽長の座を期待していたようだが、才能が伴わなかった。夢破れたヨハンは挫折し、従来の飲酒癖に拍車がかかりアルコール依存症にまでなった。気の弱い凡庸な男だったのだろう。しかしこのような例は、現在でもよく見られる。ヨハンが望みをかけたのは、才能豊かな息子のルートヴィヒを神童として売り出すことだった。 そのころのヨーロッパで神童の名をほしいままにしていたのがヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜91年)で、6歳のとき女帝マリア・テレジアにピアノの御前演奏を披露し、「一晩で3年分の金を稼いだ」と噂されていた。ヨハンは猛烈なスパルタ教育を息子に課す。泥酔して夜中家に帰ってくると、ベートーヴェンをたたき起こしてピアノに向かわせることもあったという。それでもベートーヴェンが音楽嫌いにならなかったのは幸いだった。それほど音楽に対する愛が深かったのだろう。 父親は息子を神童として売り出すためにケルンで演奏会を催し、広告に「息子は6歳」と記したが実際は8歳近かった。この演奏会は失敗に帰した。ヨハンはさすがに自分に限界を感じ、息子の教育を宮廷楽士の仲間に委ねた。ベートーヴェン最初の幸運である。オルガン、ヴァイオリンと次々に奏法をものにしていく。そして次に訪れた幸運が、ボンの宮廷に、選帝侯付きオルガン奏者として招かれたクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748〜98年)との出会いである。 この幸運は、いくら強調しても強調し過ぎることはない。ネーフェはベートーヴェンの才能を見抜き、自己流に流れていた音楽を正統派に引き戻していった。教本として与えたのが、ピアノ奏法の原点である大バッハの「平均律クラビーア(ピアノ)曲集」。後年ベートーヴェンは新しい奏法を試みるときバッハを繰り返(*2)エレオノーレ・フォン・ブロイニング(1772~1841年)の少女時代の肖像画(ベートーヴェン・ハウス蔵)。愛らしい表情の中に、聡明さ、利発さが見てとれる。ベートーヴェンが彼女に捧げた「エレオノーレ・ソナタ」は、なぜか第一楽章しか完成していない。第二楽章は弟子であり後に高名なピアニストになったリースが作曲、第三楽章はない。リズミカルで軽快なメロディは、若い女性が心の浮き立つままに軽やかなステップを踏みながら駆け回っている姿を想像させる。35上右:今日ベートーヴェンの姿で最もポピュラーな肖像画。作者はバイエルン王国の宮廷画家だったヨーゼフ・シュティーラー(1781~1858年)。1820年、芸術家のパトロン、アントニー・ブレンターノ(1780~1869年)の依頼で描かれた。左:ベートーヴェンの師・ネーフェの肖像画。ベートーヴェンは11歳で、新しく宮廷オルガニストに就任したばかりのネーフェに師事。このネーフェが、ベートーヴェンの後の作曲活動に大きな影響を与え、音楽家としての基礎を築いたとされる。下:フォン・ブロイニング一家を描いた影絵。左から2人目のドレス姿がエレオノーレ。いずれもベートーヴェン・ハウス蔵。Special FeatureBonn: On Home Ground with Young Beethovenベ
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