し研究しているが、土台はこのとき築かれたといっても過言ではない。 この師弟関係は、さまざまな利点をもたらした。ネーフェが不在のとき、ベートーヴェンはオルガン演奏で代役を務めた。12歳から15歳にかけては「即興で和声を付けたチェンバロを弾きながら、オーケストラを指揮する」という難しい役までこなした。後年ベートーヴェンは複雑なスコアを初見で弾いて人々を驚かせたが、その技能はこの時期に身につけたのだろう。 師ネーフェに対する彼の思いは深い。後年ウィーンから、「もし私が偉大な音楽家になることがあれば、それはすべて先生のおかげです」という手紙を送っている。傲岸不遜な人物としてとらえられがちなベートーヴェンだが、真に恩義を感じた人、尊敬すべき才能の持ち主には実に礼儀正しく鄭重に接している。 第二の幸運は、フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー(1765〜1848年)というボンきっての秀才との出会いである。ヴェーゲラーは5歳年上で、ウィーンの医学留学から帰ってきたばかりだった。二人がどのようにして知り合ったかは定かではないが、当時のボンは人口1万人くらいだったから、秀才と天才が知り合うのにさほどの時間はかからなかっただろう。 ヴェーゲラーは24歳でボン大学医学部の終身教授になり、交友は一生続いた。偉大な作曲家の死後はベートーヴェンの一番弟子でピアニストのリースとともに『ベートーヴェンの伝記的記録』という本を著した。この著作は後世の研究家にとって貴重な一次資料となっている。 ヴェーゲラーはベートーヴェンを、ボンきっての名家フォン・ブロイニング家の人々に引き合わせた。このころブロイニング家は、主人を宮廷の火事で亡くし、寡婦のへレーナ夫人が当主で、長男クリストフ、長女エレオノーレ、次男シュテファン、三男ローレンツの4人の子どもがいた。夫人は明るいオープンな性格だったようで、子どもたちの関係もあり、ブロイニング家は若者たちが集うサロンのようになっていた。 ベートーヴェンはちょうど母親を亡くし、1歳半の妹まで失い、愛情に飢えた状態にあった。父親の酒癖は相変わらずだったが、落ち込むベートーヴェンをヘレーナ夫人は温かく迎え、食事のマナーや服装、礼儀作法などをこまめに教えていった。長女エレオノーレと末っ子のローレンツにはピアノの教師として、次男のシュテファンとはともにヴァイオリンを習う間柄となっていった。 しかし何よりも特筆すべきは、ブロイニング家の蔵書を通して読書の喜びを知ったことである。ドイツ文学の古典はもちろんのこと、シラーやゲーテの著作に接することができた。ボン大学では聴講生となって哲(*2)ドイツ神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ権利を有した特権的な貴族。学も学んでいる。後年人々を驚かせた曲想の壮大さ、思想の堅固さは、このブロイニング家での読書で培われたものだといってよいだろう。 長女エレオノーレはベートーヴェンの初恋の人といわれているが、二人の感情にはより高い知性に裏打ちされた、恋愛感情以上のものがあったのではなかろうか。エレオノーレは後にヴェーゲラーの妻になり、三人の友情はベートーヴェンが57歳で亡くなるまで続く。 22歳でウィーンに旅立つベートーヴェンに、エレオノーレは次のような印象的な言葉を送っている。「友情は善なるものと共に夕べの影のように育つ。人生の落日のときまで」。右:ベートーヴェン8歳の最初のコンサートの広告。左:祖父・ルートヴィヒの肖像(ともにベートーヴェン・ハウス蔵)。祖父はボンのケルン選帝侯の宮廷歌手(後に楽長)。対して父のヨハンは酒浸りで粗暴な人間として語られがちだが、実際は「偉大な宮廷楽長の父」と「天才の息子」の間で板挟みになり「劣等感にさいなまれた気の弱い声楽家」と理解したほうがよいようだ。そんな父親を、息子はそれなりに愛していた形跡がある。36Special FeatureBonn: On Home Ground with Young Beethoven
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