は、ドイツ騎士団の叙任式に列するためだった。当時ベートーヴェンはっている。ウィーン生まれの長身・白皙で颯爽たる青年貴族の姿は、さぞかし鮮やかな印象でベートーヴェンの眼に映ったことだろう。 15年後に作曲され、ヴァルドシュタイン伯に献呈されたピアノソナタ第21番、通称「ヴァルドシュタイン」の第一楽章は演奏速度がアレグロ・コン・ブリオに指示され、「快活に、生き生きと」となっている。和音の連打とエコーのような音形が軽快な速度で明るく繰り返され、それはまさにベートーヴェンがブロイニング家で見た青年貴族の潑溂とした第一印象そのものを思わせる。ヴァルドシュタイン伯も優れたピアニストだったから、たちまちベートーヴェンの才能に魅了され、パトロンになりピアノを贈呈している。 ところでこの時代を知るうえで大切なのは、背景となる産業革命とフランス大革命を理解することだろう。2つとも世界史上で初めて人間の在り方を一大変化させた。き伯爵・ヴァルドシュタインが26歳でボンにやってきたの(*3) 産業革命は技術革新である。ピアノはその代表的な産物であり、当時のハイテクの塊だった。工業力の発達は強靭なピアノ線と、その張力に耐える強いボディを作ることを可能にし、性能が飛躍的に向上したことで音域も広がり和音の連打が可能になった。「ヴァルドシュタイン」を作曲する直前の1803年、ベートーヴェンはフランスのエラール社から5オクターブの音域をもち、難聴の耳にも十分な刺激を与えられるピアノの贈呈を受けている。 ベートーヴェンは33歳。難聴に苦しみ、ハイリゲンシュタット村で遺書まで書いて自殺を考えながらも、強烈な意志で生きる意欲を再燃させ、人生最大の難関を乗り越えている。その情熱があふれるままに、豊かで壮大華麗なソナタが生み出された。「ヴァルドシュタイン」が「ピアノの英雄交響曲」と評されるのも当然であろう。 一方フランス革命は、意識革命である。「人は生まれながらにして平等」という考えだから、貴族の特権に強い疑問符がついた。「人間は平等」という思想は産業や商業が発展するにつれて市民社会を生み出し、タイン伯爵(1762〜1823年)。ベートーヴェンにウィーン行きを勧め、ハイドンに推薦した有力なパトロン。ンに旅立つ前年の1791年12月5日に死去している。その烈風を受けて二人は別々の道を進んで行く。ベートーヴェンは生涯その信条に忠実だったが、ヴァルドシュタイン伯は貴族社会から抜け出ることはできず、反ナポレオン戦争に参加して軍隊を組織したり、英国軍に参加したりして戦い続け、全財産を失いウィーンで亡くなっている。 しかしながら、給費留学生としてェンに送った若き青年貴族の送別の言葉は、愛と友情と情熱に満ちて力強く、いまも広く知られている。 「親愛なるベートーヴェン君! 長年の夢かない、君はウィーンに旅立つ。モーツァルトの守護神はいまだ護り子の死を嘆いている。 たゆみなき精進を支えに、ハイドンの手からモーツァルトの精神を受け継ぎたまえ。 君の真の友、ヴァルドシュタイン 1792年10月29日、ボン」(*4)(*3)フェルディナント・フォン・ヴァルドシュ(*4)モーツァルトは、ベートーヴェンがウィーはくせきライン川を照らす月。ピアノソナタ第21番の2年前に書かれた第14番、通称「月光ソナタ」を思い起こさせる。17歳、二人はブロイニング家で出会22歳でウィーンに旅立つベートーヴ38Special FeatureGraf’s patronage & Piano Sonata No.21 Bonn: On Home Ground with Young Beethoven若ベートーヴェンの若きパトロン
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