べ ートーヴェンがフリードリヒ・フォン・シラー(1759〜1805年)の詩「歓喜に寄す」に感銘を受けたのは、ボン大学の聴講生だった18歳の頃。当時ボンの知識人たちは、フランス大革命の大義「人は生まれながらにして自由で平等」を好意的に受け止めていた。人びとが漠然と感じていた中世の抑圧感、不平等感などの社会矛盾が明るみにさらされるにつれ、人間のあるべき姿が見えはじめた時代だった。 そうした時代の熱気を受けて、ベートーヴェンはシラーの詩に曲をつける決心をした。それが第九交響曲の合唱となって完結するまでには、実に34年の歳月がかかった。ウィーンでの初演は54歳の時だが、シラーの原詩を3分の1に改稿し、冒頭に3行自作の詩をつけ加えている。 「おお友よ、このような旋律ではない! もっと心地よいものを歌おうではないか もっと喜びに満ち溢れるものを」 * ベートーヴェンは17歳のとき、モーツァルトに教えを請うため一人ウィーンに旅立った。だが「母危篤」の報を受け、あわただしくウィーンを去った。だから、モーツァルトを訪ねた結果がどうであったのかについては、語られていない。しかし後年モーツァルト研究家が次のようなエピソードを紹介している。 ベートーヴェンはモーツァルトの家で、何かの曲を弾いた。モーツァルトはそれがあらかじめ用意してきた曲だと思い評価しなかった。そこでベートーヴェンは「即興演奏のテーマ」を求めた。後にウィーンの社交界で「ベートーヴェンの即興演奏は、聴く人を直ちに魅了する」と評判になるヴィルトゥオーゾ(即興演奏家)の演奏は、たちまち天才モーツァルトをとらえ、彼は友人たちに「彼はいつの日か語るに足るものを世界に与える」と語ったという。 こうした評価をベートーヴェンが聞いていないのは、おそらく演奏に熱中していたか、移り気なモーツァルトが演奏途中で部屋を去ってしまったからかもしれない。同様のことが、ベートーヴェン53歳のとき、11歳のフランツ・リスト(1811〜はベートーヴェンに数曲弾いてみせ、絶賛された。リストは「私は滅多にこの話をしないが、一生で最大の誇りにしている。私の生涯の守り神なのだ」と常に深い感情のこもった声で語ったという。 * ベートーヴェン20歳のとき、ロンドンの演奏旅行に向かう当時の大家ハイドン(1732〜1809年)はボンに立ち寄った。そして若き音楽家の作品に触れて感銘を受け、2年後、帰路ボンに立ち寄ったとき弟子に迎えることを承諾した。師弟の間柄になったが関係は微妙だった。ウィーンの夜会でベートーヴェンの新曲が披露されたとき、ハイドンは「もはや教え子ではない。ライバルだ」とつぶやいたという。 ベートーヴェンは「悪魔の指をもつ」と言われるほどの即興演奏の名手としての名声をほしいままにしながら、対位法やオペラ・声楽の技法を地道に学び自らの道を歩き始める。ハイドンとは38歳の年齢差があったから、傾向も微妙に異なった。ハイドンに献呈した新作のソナタの表紙に、「ハイドンの弟子」と書き込むことを要求されたときに拒否している。だが、二人が決定的に対立したとは言えないだろう。 ハイドンは次のように手紙に認めている。「やがて彼がヨーロッパ最大の音楽家になることは誰しも認めざるを得ず、しかも私は彼の師であったことを喜ばざるを得ないでしょう」。対してベートーヴェンは後年ハイドンの生家を訪れ、こうつぶやいている。「この小さな家から、あのように大きな心をもった人が生まれたとは」。したた1786年から90年まで使用していたヴィオラ(ベートーヴェン・ハウス蔵)。ベートーヴェンは1789年から宮廷オルガニストと同時に宮廷ヴィオラ奏者も兼ねていた。4186年)との間で起きている。リスト右:1812年、アントニー・ブレンターノの娘・マクセの演奏上達のために書いた「ピアノとヴァイオリン・チェロの三重奏曲」の直筆楽譜。左:ウィーンのピアノ製造業者コンラッド・グラフによるベートーヴェン最後のピアノ。ともにベートーヴェン・ハウス蔵。Special FeatureBonn: On Home Ground with Young Beethoven
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