SIGNATURE 2019 3月号
10/84

人Koichi SUZUKIが咲き誇る1か月間、「東京・春・音楽祭」は上野公園一帯で200もの公演を催す。東京文化会館はオペラで華やぎ、東京国立博物館にバッハが響く。ちょっと気取って出かけたいものから、ふらっと立ち寄れるものまで、懐の深さがこの音楽祭にしかない魅力を醸している。人々の記憶に上野の桜と音楽がリンクするようになって、間もなく15年目の春を迎える。 「早いよね。最初はお客さんがいなかったのに、今はいっぱい来てもらえるようになってね……」 始まりは2005年春。縁あって小澤征爾氏と新制作のオペラ上演を軸にした「東京のオペラの森」を4年続けて開催し、その後は音楽監督を置かない今の形式と名称に改め、回を重ねてきた。 「2年目にもうやめようと思ったんですよ。小澤さんが病気で降板して指揮者交代を発表した途端、電話が鳴り続けて、払い戻しが4000枚以上。あり得ないですよね」 しぼむ心に、ヴェルディ《レクイエム》の指揮で音楽祭に参加したイタリアの巨匠、リッカルド・ムーティの言葉が染みた。 「どの音楽祭も最初は大変で、出演者より観客のほうが少ないこともよくある。続けることが大切だ、と。そこまでの覚悟が必要なのかと思いました」 以来、友情を深め、ムーティは毎年のように春の東京でステージに立つ。欧州楽壇の実力者、ウィーン国立歌劇場前総裁のイオアン・ホレンダー氏の支援もあり、制作したオペラの上演権を一流歌劇場に売ることにも成功した。 少しずつ、焦らず。本当にいいものをつくるために「官」から距離を置き、みんなの祭りとして育てたい。その思いは地域の商店主や文化施設、企業のトップにも浸透し、仲間が増えていった。 上野は青春の地だった。高校が嫌になり、地元・横浜から電車に乗って、週3日は上野の博物館や文化会館のLP試聴室で時間を潰した。高いお金を払わずとも、上野は芳醇な文化と教養を与えてくれた。 15年の歩みを振り返るとき、2011年が節目だったと感じている。東日本大震災の後、開催をためらう声もあった。だが、3月25日、新聞に個人名で意見広告を出してこう訴えた。〈多くの人々が未曽有の災難に打ちひしがれる状況で、「東京・春・音楽祭」の主催者としてなすべきことは、音楽という芸術が持つ力を信じ、演奏会を開催し、ひとりでも多くの方々に、生きることの喜びを、蘇らせることではないかと思います〉。 「こんな時に音楽家が音楽をしないなんて。何の意味があるんだと思いました。過剰な自粛が嫌でした」と当時を述懐する。 大指揮者ズービン・メータは出演を決め、《第九》公演に臨んだ。 「メータさんもお客さんも泣いていました。大変な時ほど音楽が染みる。あの《第九》は、特に記憶に残っています」 今春はメゾ・ソプラノのエリーザベト・クールマンやバス・バリトンのブリン・ターフェルら著名な歌手が上野に集う。もちろん、盟友ムーティも。 先を見通す力に長けた実業家は、15周年の先に何を見ているのだろうか。 「音楽祭の期間をもっと長くしたいですね。お金があったら700から800人のホールをつくって、バロックオペラもやりたい。初めて生の演奏を聴いて、誰か一人でも『音楽を好きになっちゃった』と言ってもらえたらいいよね」no.SignatureInterview上:上野の黒門と桜。写真・堀田力丸/下:ミュージアム・コンサート〈東博でバッハ〉東京国立博物館 法隆寺宝物館の夜景。写真・青柳 聡すずき こういち|1946年、神奈川県生まれ。株式会社インターネットイニシアティブ(IIJ)代表取締役会長兼CEO。日本における商用インターネットサービスプロバイダの先駆者として、90年代の創成期から20年以上にわたり新しい通信インフラ市場を切り拓く。一方、2005年より東京・上野で立ち上げた「東京のオペラの森」を、09年「東京・春・音楽祭」にバージョンアップ。主宰者としての活動は15年におよぶ。902008年、小澤征爾氏、イオアン・ホレンダー氏と。写真・大窪道治12鈴木幸一上野は、パリやロンドンを巡って帰国した人たちが、同じような文化的空間をつくろうとした場所桜

元のページ  ../index.html#10

このブックを見る