においても、リキアはアナトリア西部で唯一征服されることなく、独自の文化を形成し維持していたという。その後、ペルシア帝国、マケドニアのアレクサンドロス大王やローマ帝国の支配下に置かれながらも、リキア人たちの国家として独立的立場を維持し続けた。紀元前167年には23の都市により、民主主義にのっとったリキア連盟が構成され、都市の規模に合わせて1人から3人の代表が参加し、大統領を選出した。比例制という現代の民主的な統治方式は、すでに紀元前の地中海沿岸のこの地で行われていたのだ。紀元43年まで約200年続いたこの連合は、歴史上で最初の民主主義連合として知られ、アメリカの連邦制のモデルとなっている。 その一方で、文化面では柔軟に異文化を受け入れてきた。土着の木造建築は遺跡としてほとんど残っていないが、ギリシャ文化以降の影響が入り混じっている遺跡を、今も数多く見ることができる。彼らは植民地下の中での義務を果たしつつ、自由を貫き、文化・芸術に対する関かけら心を持ち続けていたと考えられる。最も興味深い特徴のひとつは、彼らの葬祭文化だ。リキア人の葬祭建築は数多く現存している。特に崖の表面に家型や神殿型に彫った優美な磨崖墓は景観の一部となり、圧倒的な存在感を放っている。破風や壁にレリーフを施したもの、リキア語やギリシャ語で墓碑銘が書き記されたものもある。これらの墓は、ローマ時代にいたるまで数百年にわたって使い続けられていた。 かつてリキア文明が存在した、アンタルヤからフェティエまでの地中海にせり出た半島に今も残る、美しくも謎めいた欠片を訪ねてみるとしよう。まがいぼはふ右:リキア文字のほかにアラム文字とギリシャ文字が刻まれた3言語石碑。現存する史料が少ないリキア文字だが、こうした石碑や墓石に刻まれた文字から、全29の文字で構成されていたことなどが解明されている。左:ギリシャやローマに属する以前のリキアの「戦士」が彫られたレリーフ。誇り高き都市国家を形成していた民族性が窺える。33上:リキアの中心的都市であったクサントスには、当時の繁栄ぶりを示す数多くの遺構が残っている。右:リキア文明の最大の特徴といえる岩肌をくり貫いた磨崖墓群。左:ギリシャ、ローマ時代の円形劇場も数多く残っている。下:ザクロは豊穣や子孫繁栄を意味する幸運のシンボル。トルコでは料理にもよく使われている。
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