当時流行語となった。戦後10年、荒廃した焦土から誰もが予想もしなかった勢いで復興した日本。国民所得は戦前の5割増。一人当たりの所得は最高記録を更新した。戦後復興の勢いにより発展する時代は終わり、近代化による継続的な成長が求められた。 戦災で壊滅した全国の都市では、建築家たちによる復興計画が進められていた。東京大学建築科助教授の丹下健三は、広島市全域の都市計画を担う。丹下は、1951年(昭和26年)、英国ホッデストンで開催されたCIAM(近代建築国際会議)に招待され、「広島平和記念都市計画」を披露、広島ピースセンターを平和記念都市・広島の復興の象徴として発表する。丹下の提案は説得力極まるものであった。存廃議論の渦中にあった原爆ドームを目標に、平和大通りから、資料館、慰霊碑、原爆ドームが一直線に重なり合う軸線を提案する。1955年(昭和30年)に竣工し、2006年(平成18年)には、戦後初の重要文化財に指定され、日本の近代建築を代表する建築作品となった。 石元泰博が建築家の作品を撮影した最初期の傑作がこの一枚である。資料館と原っぱ。地平線を中心に上下に分割されている。建物を支えるピロティ、慰霊碑を通して小さく原爆ドームが見える。この資料館の最大の展示資料こそ、このドームであることをこの写真は明示しているのだ。丹下が都市に描いた見えない軸は、石元によって見事に可視化された。 それだけではない。未だ原爆の爪痕が残る原っぱにこそ、石元の写真に込めた意思がある。 石元曰く、「写真はいまここを伝えるもの」だと。石元の眼に映った光景は、この建築が平和と発展の象徴として歩んでゆく未来と、すべてを失った大地に無造作に生えてくる雑草の姿が対峙する、移りゆく瞬間であった。はや戦後ではない」――1956年(昭和31年)の『経済白書』の結びに記されたこの言葉は、「も57《広島ピースセンター》(現・広島平和記念資料館および平和記念公園)1953~55年撮影設計:丹下健三|1955年竣工|重要文化財高知県立美術館蔵戦後という名の平和広島
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