CSignature19もとむら ゆきこ|毎日新聞社編集編成局編集委員。文系脳でも楽しめる科学エッセーで知られる。日本の科学技術の現状を掘り下げた『理系白書』で2006年、第1回科学ジャーナリスト大賞受賞。著書に『気になる科学』『科学のミカタ』(共に毎日新聞出版)など。文・元村有希子 イラスト・羅久井ハナ ある昼下がり、 私は東京・中野の定食屋のカウンターで考え込んでいた。 目の前には炊きたてのご飯、 豚バラ肉とタマネギを炒めてタレをからめたおかず、 そしておいしそうな湯気を上げている豚汁。 私が頼んだのは「焼肉定食 830円」だった。 が、 出てきたのは豚バラ肉。 ひょっとしてオーダーミス? 顔を上げると、 ご主人と目が合った。 「焼肉定食って……牛肉じゃないんですね」 「うん、 ウチはね、 肉って言えばブタなの。 トンジルもうまいよ」 いや私の中では肉といえば牛肉なんです、 と言いたい気持ちをなだめて箸をつけた。 おいしかった。 牛肉への煩悩を忘れかけたほどだ。 だけどやっぱり焼肉と言えば牛肉でしょ、 しかもブタジルじゃなくてトンジルとはね。 そんな話を東京育ちの後輩にしたら「いやいやいや、ブタジルじゃなくてトンジルです」という。 私が生まれた九州では、 「豚汁」にふりがなを振れと言われれば「ブタジル」が正解なのに。 このトンジルブタジル問題に関してはNHK放送文化研究所が分析している(2001年3月「放送研究と調査」)。 女性より男性、 高齢者より若者が「トンジル」と呼ぶ傾向があるほか、 東日本に「トンジル」派が多い。 西日本では私のように「肉と言えば牛肉」と考える人が多いので、 豚肉料理には「ブタ○○」と明示する心理が働くのだろうか。 ちなみに「トンジル/ブタジル境界」は東海地方、 という説もある。 その東海地方では豚コレラが猛威を振るっている。 野生のイノシシが媒介しているようだ。 この病気は人間にはうつらず、 もし感染した豚の肉を人間が食べても心配ないということだが、 家畜の病気は経済被害に直結するから、 養豚業者の不安はいかばかりか。 これまた気になるのは 、この病気を「トンコレラ」と呼んでいること。 なぜ「ブタコレラ」じゃないの? 科学記者の人脈を駆使して知り合いの獣医に聞いて回ったが、「学生時代に家畜伝染病の講義で『トンコレラ』と習った。 理由なんて考えたこともない」とのそっけない答えが大半。 うーむ。 唯一得られた、 それらしい説は「ブタコレラ菌が引き起こす別の病気と区別するため」というもの。 いま問題になっている「トンコレラ」の病原体はウイルスだ。 一方、 豚に腸炎や敗血症を引き起こす「ブタサルモネラ症」と呼ばれる病気があり、 この病原体が「ブタコレラ菌」。 ウイルスではなくサルモネラ菌の仲間だという。 なるほど。 トンかブタかは意外に深い問題なのだった。olumnスベカラクカガクText by Yukiko MOTOMURAIllustration by Hana RAKUI第1回1トンジルブタジル問題Science
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