SIGNATURE 2019 6月号
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よ なだいきりにちょうまちかじわらへいぞうほまれのいししたやしょうねやれはすさとみとん「大播磨」の掛け声写真・鍋島徳恭 文・小玉祥子写真提供:松竹株式会社、早稲田大学演劇博物館 ある時代を画した拮抗する名優を、ひとまとめにして呼ぶことがある。明治以降の歌舞伎界でポピュラーなのが九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の「團菊」、そして六代目菊五郎と初代吉右衛門の「菊吉」だろう。4人の中で、ただひとり初代であることからもわかるように、初代吉右衛門は自身の実力のみで、歌舞伎界の頂点に上りつめ、後世に名を残した俳優であった。 明治19年(1886年)に上方から東京に居を移した三代目中村歌六の長男として生まれた。ちなみに当代吉右衛門の生年は昭和19年(1944年)。年齢換算がしやすいこともあって、若き日の当代は常に初代が同じ年に何を演じていたかを意識したという。 初代の母は浅草の芝居茶屋の娘で、大の九代目團十郎贔屓であり、芸事にも明るく、初代を厳しく仕込んだ。初代は浅草の子供芝居で人気を博した後、九代目の一座で初舞台を踏んだ。九代目の没後も歌舞伎座で修業を積み、名題となった明治38年(1905年)には早くも歌舞伎座で《梶原平三誉石切》の梶原平三景時を初演している。初代市川左團次が演じて以来、大芝居では途絶えていた演目の久々の復活上演であり、梶原は初代吉右衛門の生涯の当り役となった。 明治41年(1908年)に六代目菊五郎と共に市村座の座付となり、二本柱として活躍。劇場の所在地(下谷二長町)にちなんで「二長町時代」と呼ばれるようになる。1歳違いの二人は競い合うように大役を演じ、主に初代は時代物、六代目は世話物に力量を発揮した。双方の贔屓に二分された客席からは、競うように「播磨屋」「音羽屋」の掛け声が飛び交ったという。初代は、その後、歌舞伎座に場を移し、昭和29年(1954年)に没するまで、歌舞伎界を牽引し続け、歌舞伎ファンからは「大播磨」と呼ばれて親しまれた。 夏目漱石門下のドイツ文学者で、同時代を生きた大の吉右衛門贔屓の小宮豊隆は「吉右衛門ほどにその役の性根をしっかりつかみ、舞台の上にその人らしい人間を徹底的に生き生きと表現する事の出来る役者は、外にはいないのである」(『中村吉右衛門』岩波書店刊)と絶賛している。 初代は歌舞伎の基礎ともなる義太夫はもちろん弓道などの武道、俳人・高浜虚子に師事した俳句、さらには小唄までを能くした。すべてが芝居のためであったろう、とは当代の推測だが、初代自身も「俳句も弓も私にとりましては趣味ではなく、人間修行、ひいては俳優修業のつもりでございます」と述べている。初代の「破蓮の動くを見てもせりふかな」という句からもその姿勢がうかがえる。「秀山祭」の〝秀山〞は明治期の政治家・土方久元の命名による初代の俳名だが、句作に用いることはなかったらしい。虚子に俳号は使わずに吉右衛門のままがいいとすすめられたからだ。 『吉右衛門自伝』(啓明社刊)に里見弴の現代劇《新樹》に挑んだ時の初代のエピソードが紹介されている。目が不自由な画家の役で、幕切れに笑うのだが、うまくいかない。気晴らしに妻の千代と連れ立って浅草寺に詣でようと仲見世を歩く人込みの中で突然、初代が大笑いしだした。千代は心労から、初代が変調をきたしたのではと驚いたという。 初代は「丁度この時、工夫が附きましたので、場所柄も忘れて、思はず実演して見た次第なのでした」と記している。それほどに、頭の中は常に芝居が占めていたのだろう。 昭和26年(1951年)には存命中の俳優としては初めて文化勲章を受章した。同29年(1954年)7月に《熊谷陣屋》の熊谷直実を演じたのが最後初代吉右衛門が歌舞伎に残したもの播磨屋の系譜334高浜虚子が「椿門」と書いた初代 吉右衛門自宅、庭木戸の前で。萬之助を名乗っていた頃の当代と。写真提供:松竹株式会社明治19年(1886年)~昭和29年(1954年)大正・昭和の大看板。屋号は播磨屋。六代目 尾上菊五郎とともに「菊吉時代」を築き、名優と称され今日の歌舞伎に大きな影響を残した。初代 中村吉右衛門

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