逢えば皆が挨拶してくれた。 「おい、あそこを見な」 「おう、トモさんと伊集院の兄さんだ」 それでも人気があったのはトモさんで、三十、四十代の私はまだ青二才で、何か嫌なことがあるとすぐに顔色を変えた。 「まあまあ伊集院はん、そうカッとせんでボチボチ行こうやないか」 とやんわり私の感情をとかしてくれた。 仲人までも引き受けてもらった。 小説家としてなんとか食べて行けるようになったのも、この人のお蔭である。 私にとって特別な人ではあったが、それはこちらが勝手に思っているだけで、もっと特別な人はいたに違いない。 トモさんは十年近く前に手術をし、無事に退院し、三年前の冬に再発した。 急なことだった。 病状の様子がさまざまな人から耳に届いたが、私は静観していた。 病院に見舞いに行った人の話も聞いた。 時折、二人で電話で話をした。周囲の人の話よりも声は元気そうに聞こえた。 無事、年を越し、病状に変化が出たのは春の声が届く頃だった。 電話は私から掛けるだけだったが、三月になりトモさんから電話が入った。何とはない話の内容だったが、最後に私は訊いた。 「△△さんと□□さんを見舞いに行かせましょうか」 「……そうやな」 しばらく沈黙のあとの言葉だったので切なかった。 訃報を聞いたのは雛祭りを越した早朝であった。――そうか……。 とだけ私はつぶやいた気がする。 とうとう逢いに行かなかった。敢えてそうしたわけではなかったが、逢えば私もトモさんも辛くなる気がした。私だけならいいが、トモさんが辛くなるのは耐えられなかった。 またたく間に二年が過ぎた。 時折、トモさんと親しかった人とゴルフをしたり、酒を飲んでいる時に、 「トモさんがあの時さ……」 という枕言葉のようにトモさんの話題が出ても、不思議と動揺することはなかった。 私は普通の人より、歳のわりに多くの死別を経験して来た。そのせいかとも思ったが、それはやはり違う。人の死はそんななまやさしいものではないはずだ。 「伊集院はん、何か面白いことしいへんか」 「面白いことって?」 「そりゃ面白いことに決ってんやないか」 「ふうん」 「ふうんって、あんさん今夜はえらい他人ひなまつおもろ行儀やないか」 「だって他人でしょう、私たち」 「他人には思えんけどなあ」 「あっそうだ。長崎に面白いゴルフコースができたらしいですよ」 「おっ、待ってました。ゴルフに長崎チャンポン、丸山で芸者を上げて、ポン!」 「何なの? そのポンって?」 「ポンはポンやないか」こうしてすらすら、まだ生きているような情景と会話が書ける。 京都の鮨屋の主人が言ったことは真実なのだと、この頃思っている。〜〜8一九五〇年山口県防府市生まれ。八一年、文壇にデビュー。小説に『乳房』『受け月』『機関車先生』『ごろごろ』『羊の目』『少年譜』『星月夜』『お父やんとオジさん』『いねむり先生』など。エッセイに美術紀行『美の旅人』シリーズ、本連載をまとめた『旅だから出逢えた言葉』(小学館)などがある。『週刊現代』に連載中のエッセイをまとめた国民的ベストセラー「大人の流儀」シリーズ(講談社)は、累計百八十五万部を突破。最新刊に『一度きりの人生だから~大人の男の遊び方②』(双葉社)『女と男の絶妙な話。』(文藝春秋)がある。Shizuka IjuinNumber 123Kyoto伊集院 静
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