SIGNATURE 2019 6月号
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第6  回 謎銀座のまっとうであることが、懐かしくも嬉しい江戸の薫りを、今に残す文・山口正介イラスト・駿高泰子 たとえば「銀座のMデパート」という便利な言葉がある。銀座であることは伝えたいが、場所を正確に教えたくないような、特別なお店などを紹介するときに便利だ。 その伝でいけば、この店は銀座のMデパートの裏にあるとだけ書きたくなる。 父にはじめて連れて行かれたのは、今から60年も前のことになるだろうか、そのときはMデパート裏と道を隔てた向かいにあり、木造2階建てだったように記憶している。開店したという伝説の店だ。僕はてっきり先の戦災だと思っていたら、なんと震災、つまり関東大震災からの復旧であった。 その後、店舗は別のMデパートの裏の小さな路地を入った突き当たりになった。これはモダンな3階建てだ。 銀座の小料理屋さんがいずれも関西風となってしまった中で、今日では珍しい江戸の味を今に伝える。供される献立は江戸料理となっている。 営業時間が午後5時から9時までで、お客のほうでも心得たもので、8時を過ぎるころになると、それとなく引き揚げていくようだ。昨今の風潮だと夜遅くまで営業するところが多くなったが、ここでも頑なに古の商いの形態を保っている。 かといって、一見の客を断るような、敷居の高いところもない。以前、初めての客と仲居さんが、こんなやり取りをしていた。 「とりあえず、生ビール」「生ビールはありません。瓶ビールになります」 「じゃ、小瓶で」「中瓶だけになります」 「シャンパンはないの」「ありません」 「ワインリストは」「ありません。日本酒だけになります」 「それじゃ日本酒のリストくれる?」「日本酒は1種類しかありません」 その日本酒も某大手酒造メーカーの樽酒のみだ。この頑なさが嬉しいではないか。そして、これがまた抜群に旨いのだいにしえいちげんから、どうしようもない。 以前、店内の佇まいが小津安二郎の映画に出てくる銀座の小料理屋に似ているので、昔を知っている仲居さんに訊いたら、「小津さんはよくいらっしゃって先代の女将さんと仲良さそうに話していらっしゃいました」とのことだった。 その日の献立が簡素な経木に墨書されて目の前に置かれる。そこにある季節ごとのお料理はいずれも美味しそうだ。僕にとって、この店の初鰹、秋の秋刀魚、真冬の鮟鱇鍋は欠かすことができない。 こちらで食事をするたびに、まっとうであることが、謎になる世の中になってしまったなあと思うのだった。44やまぐち しょうすけ 作家、映画評論家。桐朋学園演劇コース卒業。劇団の舞台演出を経て小説、エッセイの分野へ。配信中の『山口瞳 電子全集』(小学館)に解説「草臥山房通信」を執筆。https://pdmagazine.jp/yamaguchi-zensyu/ こかれでつはてい銀け座ながい一と面復の興焼のけ狼野のろ煙し原をに上なげりて、Text by Shosuke YAMAGUCHIIllustration by Yasuco SUDAKAMystery in Ginza

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