ンテナ iithHekeHanadaIntervieww ベルリン芸術大学の近く、旧・西ベルリンが高度成長期だった1900年前後に建てられた天井の高いアパートメント内に、ハイケ・ハナダさんのオフィス『芸術と建築の実験室』はある。ハイケさんは常に空間と芸術の可能性を探ってきた。99年にはヴェネツィア・ビエンナーレの宮島達男のソーシャル・プロジェクトにも参加。現在『バウハウス・ミュージアムワイマール』のベルリンでの建築展の準備の最中で、フロアにはドローイングや写真、設計図、建材などが広げられていた。ベルリンから東京、ワイマール。それぞれの土地での仕事と暮らしの体験の後、学生時代に過ごしたベルリンに戻り、古巣を拠点とした生活を送っている。 「バウハウスの建築は旧・東独に旅行に行った時に見つけたポストカードで知って、モダンなフォルムに興味を持っていました」。当初から建築家を志していたわけではなく、高校時代はアートや社会学などに関心があったそうだ。ハイケさんは旧・西独生まれだが、ご両親は旧・東独のワイマールのあるテューリンゲン州から西側に亡命し、子供の頃は祖父母や従兄弟を壁の向こう側に訪ねていた。将来は個で何かを目指すのではなく、社会に貢献したいと考えていたのは、家族のバックグラウンドも影響しているようだ。 バウハウスの時代、女性の存在はあったが、建築家は男性ばかりで、戦後ドイツもその風潮は続いていたという。「ベルリンの壁が崩壊した頃、自分はまだ学生で、週刊誌『シュピーゲル』に載った、女性が初めて建築学科の教授になったという記事を覚えています。今では学生は男女半々くらいになりましたが、私の在籍する大学で女性の教授は私一人です」。一概には言えないが、女性にはより抽象的にものを見る目が備わっているらしい。ミュージアムのコンペは4案からブラインドで選ばれたもので、ハイケさんは、チームの設計のクオリティが評価されたと信じる。 「実はアヴァンギャルドを博物館に蔵うのはどうかという疑問も自分の中にありました。常設ですが、いつか展示内容も変わることを想定し、インダストリアル空間のようにフレキシブルに使える空間を考えました。ミース・ファン・デル・ローエが水平だとすると、私は(階段など)垂直を意識しました」 バウハウスの中でも特に好きな作家はパウル・クレー。東京で初めてチュニス時代の日本語訳された日記を読んだそうだ。絵画からだけでなく、三次元の空間にひとつのハーモニーをつくることを彼の感覚から学んだ。 「ワイマールに住んでいた頃、星がすごくきれいでした。だから、建物からは淡い光を放つようにしました。夜見るファサードはまるでクレーのドローイングのようだと私は思うのです」 夜には無数のLEDの和らいだ光が建物全体を包む。ワイマールの新たなランドマークは、光で彩られた、市民が楽しめる建物を目指している。しまハイケ・ハナダ インタビュー32右から:ベルリンでの展覧会「Metamorphosis(変身)」のためのLED照明のガラス結晶の素材。/その素材が『バウハウス・ミュージアム ワイマール』を取り巻く壁面に、何層にもはめ込まれている。/読書家のハイケさん。事務所には四方に天井まで届く本棚にアートや建築、文学書が図書館並みにそろっている。Berlin新たなバウハウスの函コ
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