SIGNATURE 2019 8&9月号
3/84

7 今年、日本が梅雨に入ろうかという時期、フランス・イタリアへ短い旅に出た。旅と言ってもテレビの番組での取材で、これまで私が鑑賞して来た絵画、彫刻などの美術の記憶を話すもので、アシストしてくれる共演者もいなくて、少し厄介なものだった。 それでも普段は大勢の見学者の中で、作品を鑑賞しているか、見学者を眺めているのかわからないような、ここ数年のヨーロッパの異常に混雑した美術館での鑑賞と違い、短い時間ではあったが、一人きりでいくつかの名作を鑑賞できたのは有難かった。 今年が丁度、ルネッサンスの巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチ没後五百年目にあたるということで、ダ・ヴィンチを中心にルネッサンスを語るという企画だった。 勿論、私は美術を専門としていないから、私なりの作品の印象、ルネッサンスという芸術隆盛の時代への感想を語るしかなかった。 台本もないに等しかったので、難しい撮影だった。 それでも撮影の合い間に以前訪ねた教会や、歩いた通りを一人で散策した。 人の記憶というものはたいしたもので、混雑した大通りの喧騒に疲れ、人通りの少ない路地に足をむけると、十年前も同じような思いで、この路地に入った気がした。フィレンツェのドゥオーモから近い場所にある路地だ。歩いて行くと、やはりあった。 文房具店と呼んでいいのかわからないが、そのちいさな店は便箋、ポストカード、ペン先、額縁、ロザリオなどを売っており、店のオリジナルのさまざまな色の糸で編んだ刺繡織りが便箋の表紙や額縁に貼り付けてあった。 ちいさな店に不似合いの大きな体軀の主人も十年前と同じだった。 「もしかして以前もここに見えましたか?」 主人が言った。 「来ました。それも同じ日に二度も」 「やはりそうだ。あの時の日本の人ですね」 「あの時は迷惑をかけました。親切にしてくれてありがとう」 十年前の旅で偶然入ったこの店で、私はいくつかの買物をした。普段、買物をしない私にとっては珍しいことだった。その旅が終って帰国すると、義母の三回忌の法要があり、家人から、「ロザリオと犬たちの写真を入れる写真立てがあれば買って来て欲しい」と言われていた。「時間があればそうしよう」 買物が好きでない理由のひとつに、自分の性格が優柔不断というか、どれを選んでいいのか迷ってしまう。それで最後に怒り出してしまう自分がいた。その日も一時間もかけて買物をしたのだが、ホテルに戻り何か文・伊集院静写真・太田真三Text by Shizuka IJUINPhotographs by Shizo OTA

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る