くの人が土産として持ち帰った木彫り熊。だが、この木彫り熊、意外な出自を持つことをご存じだろうか。遡ること、96年前。始まりは、尾張徳川家がスイスの木彫り熊を道南の八雲町に持ち込んだことだった。 八雲町は函館の北に位置し、日本で唯一、太平洋と日本海、2つの海に面する町。明治初期、廃藩置県とともに職を失った旧・尾張藩の藩士たちのため、旧・藩主だった尾張徳川家が北海道に土地を求め、開墾した場所だった。 移住した多くは農民となり、一時は農業で成功を収めたが、北海道の過酷和30年代から40年代にかけて空前の北海道ブームが起こり、多な自然下では農作物を安定的に育てるのが難しく、また乱高下する景気や戦争で困窮状態に。尾張徳川家第らの生活を向上させる手段を模索。そんな折、大正10年から11年に旅した欧州で出合ったのが、スイスの木彫り熊を含むペザントアート(農民美術)だった。 義親はヨーロッパで購入した木彫り熊などを日本に持ち帰って八雲の農民たちに示し、冬の農閑期に楽しみながら制作でき、販売すれば現金収入にもなって生活を改善できる、と提案。まずはどういうものを作るよしちかことができるか測るため、大正13年、八雲で「第一回農村美術工芸品評会」を開催する。結果は大盛況で、竹細工や染織品など多種多様なものが出品されたが、その中に、酪農家の伊藤政雄による木彫り熊第1号があったのだ。 「八雲では非常にスムーズに農民美術が受け入れられましたが、それ自体、この土地ならではのことだったと思います」。そう語るのは『八雲町木彫り熊資料館』で学芸員を務める、大谷茂之さんだ。 「大正時代、画家の山本鼎も長野で農民美術を広めようと努めましたが、かなり苦労したよう。義親と町民との良好な関係があったからこそ、八雲では事がうまく進んだのです」 昭和3年には「八雲農民美術研究会」が組織され、会員たちが彫る熊を《熊彫》として商品化。当初は《這熊》を中心に、スキーをする熊、学校で授業を受ける熊など、スイスの熊を真似た擬人化熊も作られた。そして次第に、そこから作品が進化し始める。 「堆積した牧草の上に乗る熊などは、酪農の地らしい作品。スイスの熊を模倣するだけでなく、ローカライズしていったのが大きな特徴です」(大谷さん) 戦後は、さらに個性的で自由な姿のかなえはいぐま木彫り熊が登場した。代表的作家の柴崎重行が手がけたのは、一見すると木の塊のような丸っこい熊、祈るように頭を下げて自らを抱きしめる熊など。これらは土産物の枠を超え、もはや芸術作品と言っていい存在感を放つ。 八雲で木彫り熊の制作は脈々と続いたが、10年ほど前を最後に、それを生業とする人はいなくなってしまった。だが、今も町民を対象に「木彫り熊講座」が開かれ、伝統が引き継がれている。義親と農民たちの思いが、北の大地にしっかりと根を下ろしたのだ。 昭3719代当主・徳川義親は、彼上:戦後、高い芸術性で注目を集めた柴崎重行の作品。八雲農民美術研究会に当初から参加し、指導的立場で作品を制作した。右:「熊狩りの殿様」として全国的に知られる存在だった、尾張徳川家第19代当主・徳川義親の銅像。八雲の町民は親愛の念を込めて、「徳川さん」と呼んだ。右2点:町民を対象とした「木彫り熊講座」で4代目講師を務める、千代昇さん。伝統的な八雲の木彫り熊の制作方法に則り、指導する。左:大正13年の「第一回農村美術工芸品評会」に出品された、木彫り熊第1号。作者は旧・尾張藩士を父に持つ酪農家・伊藤政雄で、スイスの木彫り熊をモデルにしている。八雲町木彫り熊資料館北海道二海郡八雲町末広町154TEL: 0137-63-3131(内線231)www.town.yakumo.lg.jp/soshiki/kyoudo/content0572.html
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