8いとおしい人、また一人で、この川の気配をいつもそばに感じて過ごしていた時間がなつかしく思い出される。旅人の私にして、このような気持ちになるのだから、パリの人、川岸に暮らす人たちにとって、この川へのいとおしさはどれほどであろうか。 私がセーヌ河の船上生活者のことを知るきっかけになったのは一本の古い映画作品を観たことだった。 映画のタイトルは『アタラント号』。 一九三四年の作品と言うのだから、かなり古い映画である。時代で言えば、無声映画からほぼトーキーに移行した頃である。 監督はジャン・ヴィゴ。二十七歳でこの映画の製作をはじめた。『アタラント号』の撮影終了直後、ジャン・ヴィゴは病気を患った。敗血症であった。当時は死に至る病いと言われていた。編集を重ね、フィルムの手直しを自らの手で行ない完成を目指そうとしたが、二十九歳の若さで亡くなった。初めで、最後の長編映画は、映画会社が音楽も流行していた曲を付け、タイトルも『流れゆく艀』と改変させられ、興行も失敗に終った。しかし映画製作者の間で、ジャン・ヴィゴの初期の短編映画『新学期操行ゼロ』(上映禁止になった)とともに『アタラント号』は幻の作品として語り継がれていた。 フランソワ・トリュフォー、エミール・クストリッツァなどが、彼の作品を絶賛し、フィルムの存在がことあるごとに話題になっていたが、杳として原フィルムは見つからなかった。 ところが一九八九年にネガが発見され、映画製作者の努力で、最も原型に近い復元版が完成し、一九九〇はしけよう年のカンヌ映画祭で上映された。 私がこの作品を観たのも、この年だった。 主人公は運河を往来する運搬船の若き船長と新妻である。冒頭のシーンは二人のささやかな結婚式からはじまり、船上での新生活がはじまる。船は二人の新婚旅行先のパリにむかう。都に憧れる若い妻、気をもむ若い夫。物語はシンプルで、少し喧嘩もあったりで最後はハッピーエンドに終る。 ただ私はこの映画で、船で暮らすとはこういうことなのか、と感心したシーンがあった。それはこの船(アタラント号)に乗っている老水夫(ミシェル・シモンという怪優と言われる名役者が演じている)が、若い時代に世界中の海を航海し、そこで集めた土産品の数々、支那の人形、オーケストラの指揮者の人形、地図、亡くなった親友の形見など、どれも変わった、一見ガラクタに見えるのだが、これが実にジャン・ヴィゴという新進気鋭の若き監督の才能があふれ出ているかのようで感心した。 面白かったのは、船を出てパリへ行ってしまった妻、ジュリエットが言っていた言葉、「水の中で目を開ければ、愛する人の顔が見える」というのを思い出し、若き夫が船から突然、水の中に飛び込み必死で目を開けるシーンだ。当時の技術で、どうやって特殊撮影をしたのかと、これにも驚いた。 私のような旅人でさえ、パリが毎年、生きもののように変貌するのを実感するのだから、パリっ子にとって街の姿が移り変わるのは淋しかったり、時に腹を立ててしまっているに違いない。 それは都会、都の宿命なのだろう。 東京も、それは同じである。 今春、シャルル・ド・ゴール空港から北へむかう旅客機に乗った時、パリ上空を数分間航行した。丁度、セーヌ河に沿って飛んでいた。エッフェル塔も凱旋門も、夕陽の中で玩具のようであった。しかし夕映えのセーヌ河はまるで生きもののように美しくかがやいていた。 川は一見、水が流れているだけのように映るが、川面を見つめ、肌で川風に触れた大勢の人の感情とともに、どこかにむかって流れ続けているのだろう。〝パリの空の下、セーヌは流れる〞――詩人というものは、感情の根を見つめ、美しい言葉にすることがある。一九五〇年山口県防府市生まれ。八一年、文壇にデビュー。小説に『乳房』『受け月』『機関車先生』『ごろごろ』『羊の目』『少年譜』『星月夜』『お父やんとオジさん』『いねむり先生』など。エッセイに美術紀行『美の旅人』シリーズ、本連載をまとめた『旅だから出逢えた言葉』(小学館)などがある。『週刊現代』に連載中のエッセイをまとめた国民的ベストセラー「大人の流儀」シリーズ(講談社)は、累計百八十五万部を突破。最新刊に『一度きりの人生だから~大人の男の遊び方②』(双葉社)、『女と男の絶妙な話。』(文藝春秋)がある。Shizuka IjuinNumber 126La Seine伊集院 静
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